女子高生Ⅱ
教室を飛び出しためぐみは脱兎のごとく駆けだした。
今日こそ、今日こそは「あの人」にこれを渡す。
めぐみの手の中には、「あの人」と見知らぬ誰かのプリクラがある。めぐみはそれを拾ってから今日まで、大事に持ってきた。それはめぐみと「あの人」をつなぐ唯一の糸だった。
始業式にあの人を見てから、めぐみは幾度もこのプリクラを彼女に渡そうとした。しかし、決意し、いざ教室を出ると途端にめぐみは不安に襲われた。そう、彼女はおびえていたのだ。
穢れの知らない綺麗な「あの人」。彼女に対するめぐみのイメージが彼女との邂逅によって、もろくも崩れてしまうのではないか。
彼女はそれを恐れ、「あの人」から逃げていた。自分の心のよりどころである「あの人」が「あの人」ではなかったのならば。それを受け入れることがめぐみには到底無理に思えた。
ならば、いっそのこと自分の中に「あの人」をとどめ、接触する必要はないのではないか。彼女はこうも考えた。しかし、彼女は自らの好奇心や欲望を抑えることがかなわなかった。
下駄箱でローファーに履き替え、めぐみは校門に向かう。見上げた時計台の時刻は終礼の時間が終わってからまだ5分も経過していないことをしめしていた。学校を出る生徒はまだほとんどいない。
これなら見逃すことはないだろう。
そう確信しためぐみは校門のそばに腰を下ろし、心臓の鼓動を沈めようとした。だが、バカになった機械仕掛けのおもちゃのように彼女の心臓は暴れ回っていた。
こんなに緊張したのは小学生のときの歌の発表会以来かもしれない。
めぐみは幼いころ、母親に歌のレッスンに通わされていた。彼女の母は若いころプロの歌手を目指していたが、大学生のころに喉を壊してしまい、その夢は断たれてしまった。だからその夢を娘に託したのだ。 めぐみにとってほとほと迷惑な話だが、彼女自身歌は嫌いではないので、惰性で続けている。だがプロを目指す気などさらさらない。趣味は趣味で留めておくから楽しいのであって、仕事にすると嫌いになってしまう、それがめぐみなりの人生哲学だ。第一、歌手などそんじょそこらの小娘が簡単になれるものではないだろう。
ふと上を見上げると、大半が散ってしまった桜木が穏やかにそこにたたずんでいた。その姿を見ていると普段は心の奥にしまっている感情たちが自然と溢れてくるようであった。
彼女は無意識のうちに歌を口ずさんでいた。
OasisのDon't Look Back In Anger。彼女はふとした時いつもこの曲を歌う。英語が得意なわけではないから歌詞の意味は全然分からない。だが、不思議とこの曲を聞くと自分の心が広がる気がする。音楽なんてのはそんなもんなんだろう。なぜだか分からないが、心を打つ。それだけでもう十分なのだ。
「ほおー なつかしいな。Oasisか、もう何年前になるのかな」
突然、聞こえてきた声にめぐみは驚き、恥ずかしくなった。見るとそこにはたまに学校内で見かける掃除のおじさんがこちらを穏やかな表情で眺めていた。普段、人に対して心を一切開かないめぐみもその無害な瞳には安心せずにはいられなかった。
「おじさん、この曲知ってるの? お母さんがね、この曲好きで、台所で用事しているときとかいつも歌ってたんだ」
「知ってるも何も5年前、その桜の下で同じようにしてその曲を歌ってる子がいたんだよ。君もそうだが、あの子も本当に歌がうまかった。そして何よりも歌を愛していた。でも結局、名前聞くのを忘れてたんだ。あの子ならプロでも通用すると思ったんだがな」
「へー 私と同じでその子も迷ってたのかな・・・」
「迷っていたようだったよ。彼女言ってたよ 何かに躓いたりしたらここで歌を歌う。そうすれば心の中の霧がスーッと晴れて、すっきりするんだって 君も何か迷っているようだね。私に余計なことは言えないが、その代わりと言っては何だが、君がさっき歌っていた曲の中で一番好きな歌詞の訳を送るよ」
だから、僕はベッドの中から革命を始めよう
「ふざけた子供のたわ言みたいな歌詞なんだけど、不思議と心を打つんだよね、僕も昔、この曲で一歩前に進めた時があったよ」
「ありがとう、おじさん。なんだか元気出た。お仕事頑張ってね」
そう言い残し彼女は立ち上がり、再び校内に戻っていった。3年生の教室塔の入口に向かい、力強い足取りで。