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第7章:第三の矢 選択と集中

支持率が危険水域にまで落ち込み、党内からも「高虫おろし」の風が吹き始めた頃。もはや誰もが、高虫政権は守勢に回り、「国家データ主権法」も事実上、撤回か骨抜きにされるだろうと予測していた。


しかし、高虫は世間の予想の、常に斜め上を行く。

彼女は、守るどころか、さらに大きく、危険な賭けに出た。


その日の午後、官邸で開かれた、全閣僚が出席する経済財諮問会議。その席上は、重苦しい空気に満ちていた。ほとんどの閣僚は、支持率急落の原因となった高虫から距離を置き、伊吹元幹事長ら党の重鎮に擦り寄ろうと、顔色を窺っている。


会議の冒頭、高虫は居並ぶ閣僚たちを静かに見渡し、凛とした声で口火を切った。

「皆様ご承知の通り、現在、我が国は内外から厳しい批判に晒されています。しかし、私はこの改革の歩みを止めるつもりはありません」


その言葉に、数人の閣僚が露骨にため息をついた。

「ですが」と高虫は続ける。「批判の根源にある国民の皆様の『不安』、すなわち、日本の未来はどうなるのか、という問いに対して、私たち政府は、明確な答えを示す責任があります。今日はそのための、新たな国家戦略を発表します」


高虫は、事務方に資料を配布させた。

モニターに、一つのプロジェクト名が大写しにされる。


『プロジェクト・ヤタガラス』


ざわめきが起こる。ヤタガラスとは、日本神話に登場する、神武天皇を勝利に導いたとされる三本足の烏。その名を冠したプロジェクトとは、一体何なのか。


「我が国が、限られた資源の中で再び世界と戦うためには、もはや総花的な予算配分は許されません。ありとあらゆる分野に少しずつ予算をばらまき、結果として何も生み出せなかった『失われた30年』の過ちを、繰り返すわけにはいかないのです」


高虫の声に、力がこもる。

「そこで、私は決断しました。今後5年間、我が国のAI・デジタル分野における研究開発予算、その8割を、ただ二つの領域にのみ、集中的に投下します。選択と集中。これこそが、我が政権が放つ『第三の矢』です」


会議室の空気が、凍りついた。

予算の8割を、たった二つの分野に? 正気の沙汰とは思えない。文教族、厚労族、あらゆる分野の利権を背負った閣僚たちが、色めき立つ。


高虫は、彼らの動揺を意に介さず、毅然として続けた。

「その二つの分野とは、第一に『次世代モビリティ』。そして第二に『農業・食料安全保障』です」

再び、どよめきが起こる。なぜその二つなのか。


「まず、次世代モビリティについて。我が国が直面するドライバー不足と、いわゆる『2024年問題』に端を発し、今や国家の血流を滞らせるまでに深刻化した物流網の崩壊は、地方の衰退とも直結する、待ったなしの課題です。これを解決する切り札が、トラックの自動運転隊列走行です」

高虫は、そこで一度、息を吸った。


「そして、なぜこの分野で日本が勝てるのか。それは、GAFAのソフトウェア至上主義に対し、我が国の自動車産業が長年培ってきた『すり合わせ技術』が、決定的なアドバンテージとなり得るからです。」


「皆様、記憶に新しいでしょう。つい先日、北米を襲った記録的な寒波で、最新鋭の電気自動車が充電ステーションで氷の彫像のように立ち往生した、あの光景を。 あれこそ、ソフトウェアの性能を優先するあまり、バッテリーというハードウェアが極寒の環境でどうなるか、という物理的な現実を見過ごした結果です。」


「我々の強みは、まさにそうした事態を未然に防ぐことにあります。ハードウェアとソフトウェアを一体で開発し、現実世界の過酷さにとことん向き合う。砂漠の未舗装路でも、東南アジアの豪雨の中でも、そしてシベリアの凍てつく大地でも、確実に動き続けるという絶対的な信頼性。 それこそが、日本の『すり合わせ技術』の真髄です。この信頼性を核とした自動運転システムは、いずれ、世界中のインフラが未整備な国々へ輸出できる、国家的な資産となります」


閣僚たちの中から、なるほど、と唸る声が漏れた。

「次に、農業です。気候変動や地政学的リスクが高まる中、食料を海外に依存し続けることの危険性は、もはや論を俟ちません。AIとドローン技術を駆使したスマート農業は、我が国の食料自給率を劇的に改善させる、まさに『見えない国防』です」


国土交通族の議員が、疑わしげに口を挟んだ。「しかし総理、我が国はご存知の通り、平地が少なく、農業の大規模化には向いておりません。スマート農業は、アメリカのような大平原でこそ、真価を発揮するのでは?」


その質問を待っていたかのように、高虫は即座に答えた。

「良いご質問です。しかし、それこそが、日本がこの分野で世界をリードできる理由なのです。平地が少なく、区画が入り組んだ中山間地域が多い、この複雑な地形で成功するスマート農業技術こそ、世界のほとんどの国が求める技術だからです。」


「AIが、狭く不整形な田畑の隅々まで無駄なく作物を育て、小型ドローンが、急斜面の果樹園にピンポイントで農薬を散布する。この、いわば『精密農業』の技術は、国土の大半が平野ではない、アジアやヨーロッパの国々にとって、喉から手が出るほど欲しい技術となるでしょう。日本の不利な地形こそが、我々のイノベーションを加速させるのです」


高虫の言葉は、単なる理想論ではなかった。日本の弱みを強みに変え、GAFAがまだ本腰を入れていない、しかし国家の根幹を支える領域で世界的な主導権を握るという、緻密に計算された国家戦略だった。


それは、国民に「GAFAのサービスが使えなくなる」という恐怖を与えるのではなく、「日本の未来は、こうすれば明るくなる」という具体的な希望を示すための、反撃の狼煙でもあった。


会議の終わり、高虫は立ち上がって、最後の一言を告げた。

「なお、この『プロジェクト・ヤタガラス』の総責任者は、安野貴大臣に一任します」


その瞬間、安野は初めて、退屈そうな顔を上げて、ニヤリと笑った。

それは、無限の予算と権限を与えられた、天才ハッカーの、獰猛な笑みだった。

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