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第6章:四面楚歌

蜘蛛の巣が放った毒は、黒船が仕掛けた情報戦という強風に乗り、瞬く間に日本全土へと拡散した。

発端は、伊吹がリークした週刊誌の記事だった。『高虫総理、詐欺容疑のIT社長と蜜月! 司法に圧力か』――。見出しはセンセーショナルだったが、記事そのものに決定的な証拠は何一つなかった。本来なら、よくある政治スキャンダルの一つとして、数日で忘れ去られるはずの記事だった。


だが、今回は違った。

記事が発売された同日、SNS上で、まるで組織化されたかのように、もう一つの「噂」が拡散され始めたのだ。


『ヤバい。国家データ主権法が通ったら、ABCDもサービス提供できなくなって、日本から撤退するらしい』

『俺たちのスマホ、ただの箱になるんじゃね?』

『政府は国民から自由なインターネットを奪う気だ!』


宮繰が仕掛けた情報戦略だった。彼は、週刊誌のスキャンダルを、自らが作り出したデマを拡散させるための「着火剤」として利用したのだ。「金に汚い総理が、国民から便利な生活を奪おうとしている」という、極めてシンプルで、扇動的なストーリーが完成した。


テレビのワイドショーが、この二つの話題に飛びついた。コメンテーターたちは、鬼の首を取ったように高虫政権を批判する。


「国民の生活を人質にとって、自分の理想を押し付けるとは、まさに独裁者の発想ですよ!」

「クリーンなイメージとは何だったのか。結局、旧来の政治家と同じじゃないですか」

不安は、さざ波のように人々の心に広がっていった。


スーパーのレジでスマホ決済ができなくなるかもしれない。子供たちが楽しみにしている動画が見られなくなるかもしれない。仕事で使っているクラウドサービスが停止したら、会社が倒産してしまうかもしれない。


具体的な根拠など、誰も求めなかった。「GAFAのサービスが使えなくなるかもしれない」という漠然とした、しかし致命的な恐怖が、国民をパニックに陥れるには十分すぎた。官邸には、抗議の電話が殺到し、週末の都心では、法案に反対する大規模なデモまで発生した。


発足時に60%を超えていた高虫内閣の支持率は、わずか一ヶ月で、危険水域とされる25%にまで急落した。

官邸の中は、まるで沈みゆく船のようだった。


高虫が廊下を歩くだけで、今まで媚びるような笑顔を向けてきた官僚たちが、さっと目を逸らし、壁際に避ける。与党の会議に出席すれば、伊吹派の議員たちから、面と向かって「総理、一体どう責任をお取りになるおつもりですか!」という怒号が飛んだ。


かつて彼女を「しがらみのない救世主」と持ち上げた者たちが、今や彼女を「国を滅ぼす疫病神」と罵っている。手のひらを返すとは、まさにこのことだった。

その夜、総理執務室で、高虫は一人、分厚い世論調査の報告書をめくっていた。どのページにも、彼女に対する否定的な言葉が並んでいる。「指導力に疑問」「期待外れ」「国民生活を理解していない」。

孤独だった。


この巨大な官邸の中で、自分の理想を、その痛みを、心から理解してくれる人間は、果たして何人いるのだろうか。ふと、そんな弱気が心をよぎる。国民のために戦っているはずなのに、その国民から石を投げつけられる。この戦いは、本当に意味があるのだろうか。


その時、控えめなノックと共に、扉が開いた。

「高虫さん、まだいたんですか」

いつものパーカー姿の安野貴が、マグカップを片手に立っていた。


「安野大臣。何か、報告ですか」

高虫は、努めて平静を装って声をかけた。


「報告っていうか、まあ、敵の攻撃パターンの分析ですけどね」

安野は勝手にソファに腰掛けると、あっけらかんと言った。


「今回の件、見事なコンビネーションでしたよ。旧世代の蜘蛛の巣がアナログで揺さぶりをかけ、黒船がデジタルで一気に拡散させる。SNS上のデマの発信源をいくつか追ってみましたが、そのほとんどが海外サーバーを経由した使い捨てアカウント。実に用意周到だ」


彼は、まるで面白いゲームでも分析するかのように語る。その態度に、高虫は少しだけ心が軽くなるのを感じた。


「私は、孤立したようです」

思わず、本音が漏れた。

すると、安野は初めて真顔になって、高虫をまっすぐに見つめた。


「孤立? 違いますよ。これでようやく、誰が本当の敵で、誰が口先だけの味方だったのか、ハッキリしたじゃないですか」


彼は立ち上がると、高虫のデスクの前に立った。

「俺は、あんたが防衛省時代に書いた『国家デジタル主権構想』のオリジナルを読んだ。あれを書いた人間が、こんなことで折れるタマだとは思っちゃいない」


その言葉に、高虫はハッとした。自分の原点を、この若者は正確に理解してくれている。


「それに」と安野は悪戯っぽく笑った。「あんたが辞めたら、俺の青天井の予算もパーになる。それは、個人的にめちゃくちゃ困るんでね」


冗談めかした言葉の中に、揺るぎない信頼が滲んでいた。

高虫の口元に、この数日間、忘れていた笑みが、かすかに浮かんだ。


そうだ。まだ終わっていない。

味方はいる。数は少なくとも、本質を理解し、共に戦う覚悟を持った同志が。


「ありがとう、安野君」

高虫は顔を上げ、きっぱりと言った。


「ええ。戦いは、まだ始まったばかりです」

執務室の窓の外では、国会を包囲するデモ隊の喧騒が、地鳴りのように響いていた。


四面楚歌。

だが、彼女の瞳の奥には、再び闘志の炎が静かに灯っていた。


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