第4章:第二の矢 データ主権
安野貴の大臣就任が巻き起こした永田町の混乱が、まだ冷めやらぬ一週間後。高虫は、次なる一手を打った。場所は、総理大臣官邸の大ホール。臨時記者会見の知らせに、主要メディアの政治部記者が集結していた。
「いったい何が始まるんだ」「まさか、安野大臣の更迭か」
憶測が飛び交う中、高虫は凛とした足取りで演台に立った。無数のフラッシュが焚かれるが、彼女は瞬き一つしない。その静けさが、かえって場の緊張を高めていた。
「国民の皆様、そして報道関係者の皆様。本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
穏やかな、しかし芯の通った声がホールに響く。
「我が国が『失われた30年』から脱却できない、その根本原因は何でしょうか。財政の問題でしょうか。少子高齢化の問題でしょうか。それらも、もちろん大きな課題です。しかし、もっと根源的な問題があります。それは、私たちが、自国の『領土』の一部を、知らず知らずのうちに明け渡してしまった、という事実です」
記者たちが、ざわめく。領土、とはどういう意味だ。
高虫は、聴衆一人ひとりの目を見るように、ゆっくりと言葉を続けた。
「その領土とは、物理的な土地ではありません。デジタル空間に広がる、目に見えない国土、『情報領土』です。皆様が日々使うスマートフォン、検索エンジン、SNS。それらを通じて生み出される膨大なデータは、我が国の未来を左右する、石油よりも貴重な資源です。しかし、その資源は今、どこに蓄積され、誰が管理しているでしょうか」
問いかけに、誰もが答えを察した。GAFA。その巨大なサーバーは、海の向こうにある。
「国民の皆様の個人情報、企業の経済活動、社会インフラの稼働記録。それら国家の『デジタル血液』ともいえる情報が、海外のサーバーに流れ続け、その管理権を、私たちは持っていません。これは、国家主権の根幹に関わる、極めて深刻な事態です」
高虫はそこで一度、言葉を切った。そして、歴史的な一撃を放つ。
「本日、政府は、新たな法案を閣議決定し、国会に提出いたします。その名は、『国家データ主権法』です」
会見場が、爆発したような喧騒に包まれた。
「この法案は、日本国民の個人情報、および国内の重要インフラに関するデータを、物理的に日本国内に設置されたデータセンターで管理することを、事業者に対し義務付けるものです。我が国のデジタル血液は、我が国の領土内で、我が国の法の下で守り抜く。デジタル時代の独立宣言、それがこの法案の核心です」
それは、あまりにも直接的で、あまりにも過激な一撃だった。
GAFAが提供するサービスの根幹を揺るがし、彼らのビジネスモデルそのものに挑戦状を叩きつけるに等しい。
六本木ヒルズの社長室で、宮繰頁はその生中継を冷ややかに見つめていた。
「愚か者が。本当に撃ちおったか」
彼は即座に内線電話を手に取った。
「駐日アメリカ大使館の経済担当公使に繋げ。ああ、私だ。今、テレビを見ているかね? 我が社の懸念は、現実のものとなった。これは、自由で開かれたインターネットへの冒涜であり、日米間の自由貿易協定の精神にも反する、重大な挑戦だ。本国も、最大限の遺憾の意を表明することになるだろう」
電話を切るや否や、今度は広報担当役員を呼びつける。
「メディア戦略を第二段階へ移行させろ。『日本、鎖国へ』『GAFAなき世界の始まり』『便利な生活の終わり』。あらゆる言葉を使って、国民の不安を煽れ。高虫は、国民生活を破壊する独裁者だ。そう印象付けるんだ」
宮繰の指示は、まるで長年準備してきたかのように、淀みなく、冷徹だった。
その日の夕方には、案の定、駐日アメリカ大使の名前で、公式な声明が発表された。
『日本政府が検討しているとされる新たな法規制について、我々は深い懸念を表明する。この規制は、デジタル経済の成長を阻害し、日米両国の企業活動に深刻な影響を与える可能性がある』
外交辞令に包まれた、剥き出しの恫喝だった。GAFAの背後には、常にアメリカ政府がいる。高虫の第二の矢は、GAFAだけでなく、世界最強の国家をも、同時に敵に回したのだ。
官邸の執務室で、高虫は壁にかけられた日本地図を静かに見つめていた。
「嵐が来ますね」
背後から、安野貴がいつものように気配なく現れて言った。
「ええ。覚悟の上です」と高虫は答える。
「データは、21世紀の土地です。その土地を外国に明け渡したまま、どうしてこの国に新しい産業が育ちますか。どうして国民の安全が守れますか。まずは、自分たちの足元に、確かな大地を取り戻さなければなりません。どんなに強い風が吹こうとも」
高虫の瞳には、一切の迷いがなかった。
放たれた矢は、もう戻らない。そして彼女は、最初から戻すつもりなど、微塵もなかった。




