第3章:過去からの刺客
東京、六本木ヒルズ最上階。
世界を覆う巨大IT企業群、その一角を担うプラットフォーマー、『ABCD・ジャパン』の社長室は、まるで地上に浮かぶ宇宙船のブリッジのようだった。床から天井まで続くガラス窓の向こうには、霞が関の国会議事堂さえもミニチュアのように見える、東京のパノラマが広がっている。
社長の宮繰 頁は、磨き上げられた黒曜石のようなデスクで、壁一面を占める巨大モニターに映し出されたニュース映像を、無表情で見つめていた。
『高虫内閣の目玉人事ともいえる、民間からの異例の抜擢、安野貴サイバーセキュリティ担当大臣ですが、その服装や言動が、早くも与党内から物議を醸しており』
コメンテーターたちが「奇策」「人気取りのパフォーマンス」と嘲笑するのを、宮繰は冷たい目で見過ごしていた。周囲の役員たちが「日本の政治もいよいよショービジネス化してきましたな」と軽口を叩くのが聞こえる。だが、宮繰だけは笑わなかった。
彼は、この人事の本当の意味を、その危険性を、日本中の誰よりも正確に理解していた。
高虫蛹。
彼女がどんな人間か、宮繰は知りすぎているほど知っていたからだ。
「あの女、本気でやるつもりか」
ぽつりと漏れた宮繰の呟きに、役員たちの軽薄な笑い声が止まる。社長室の空気が、一瞬で氷点下にまで下がった。
宮繰はリモコンを操作してニュースを消すと、政府渉外担当の役員に鋭い視線を向けた。
「総理の動向を、もう一度徹底的に洗い直せ」
その声は、普段のスマートな彼からは想像もつかないほど、低く、硬質だった。
「防衛省時代の彼女の周辺をだ。どんな些細な情報でもいい。金の流れ、交友関係、そして『あの件』に関わった者たちの、現在のリストを作成しろ。急げ」
有無を言わせぬ命令に、役員は緊張した面持ちで深く頭を下げ、足早に部屋を出ていった。
一人になった社長室で、宮繰は椅子を回転させ、眼下に広がる東京の景色を見下ろした。
十数年前、防衛省のサイバー防衛部隊で、高虫は宮繰の部下だった。彼女は当時から、ずば抜けて優秀だった。誰よりも早く脅威を検知し、誰よりも深くその本質を見抜き、そして誰よりも過激な対策を立案する。その才能を高く評価し、引き上げたのは宮繰自身だ。
だが、彼は同時に、彼女の内に潜む危うさにも気づいていた。
彼女は、純粋すぎた。そして、自らの信じる「正義」のためなら、時にあらゆるルールや手続きを無視しかねない、狂信的なまでの直情径行さを秘めていた。
ある日、彼女が提出したレポートを、宮繰は今でも鮮明に覚えている。
『デジタル領域における国家主権の脆弱性、及びその抜本的改革案』
それは、後の「国家デジタル主権構想」の原型だった。国内の全データを国家管理下に置き、海外プラットフォーマーを実質的に排除するという、あまりに非現実的で、過激な内容。同盟国であるアメリカとの関係を根本から破壊しかねない、危険思想そのものだった。
宮繰は、そのレポートを自身の権限で握りつぶし、高虫を呼び出した。
「君の正義は、時に国を滅ぼす毒になる。我々は巨大な船に乗っているんだ。急な方向転換は、転覆を意味する。GAFAという黒船と共存し、その力を利用することこそ、今の日本が生き残る、唯一賢明な道だ」
そう諭す宮繰に、彼女は静かに、しかし燃えるような目で言い返した。
「共存ではありません。それは、緩やかな隷属です」
あの時の瞳。
自分を、時代遅れの臆病者だと断罪するような、まっすぐな光。
その光が今、この国の頂点に立っている。
宮繰はデスクに向き直ると、鍵のかかった一番下の引き出しを開けた。中から取り出したのは、一枚の古いUSBメモリ。部下にも見せたことのない、彼だけの切り札。表面には、かすれた文字でラベルが貼られていた。
『S.Takamushi Special File』
それを静かにノートパソコンに差し込むと、パスワードを要求するウィンドウが立ち上がる。宮繰は迷いなく、一つの単語を打ち込んだ。
―― ICARUS ――
認証が通り、暗号化されたファイルが姿を現す。
宮繰は、モニターに映し出されたファイルリストを眺めながら、口元に冷酷な笑みを浮かべた。
「思い出させてやろう、高虫君。君が決して蝶にはなれない理由を。太陽に近づきすぎた翼は、必ず溶け落ちるということをな」
それは、GAFAという黒船から放たれる、最初の砲弾の照準が、確かに定まった瞬間だった。




