第28章:蛹が夢見た未来
秋晴れの、穏やかな午後。
高虫蛹は、一人、ハンドルを握っていた。今日は、彼女が総理の職を退いて、ちょうど10年になる日だった。誰と会う約束もない。ただ、自らが歩んできた道のりを確かめるように、車を走らせていた。
彼女が向かったのは、かつて『プロジェクト・ヤタガラス』の最初の飛翔を見届けた、あの東名高速道路のサービスエリアだった。それは、自らが蒔いた種が、今、どんな風景を創り出しているのかを、この目で確かめるための、静かなる巡礼だった。
その風景は、高虫が総理だった10年前とは、様変わりしていた。
物流を担う大型トラックのほとんどは、運転席が無人だった。数台が一つの隊列を組み、まるで訓練された渡り鳥のように、滑らかで、整然とした流れを形成している。
時折、有人トラックが追い越していくが、その運転席に座っているのは、もはや長時間労働に疲弊したドライバーではない。彼らは「フリート・マネージャー」と呼ばれ、車内でノートパソコンを広げ、AIが管理する隊列全体の運行状況を、監督・最適化するのが仕事だった。
かつてトラックドライバーだった人々の多くは、政府のリスキリング・プログラムを経て、こうした新しい職務へと、スムーズに移行していた。
それは、彼女がかつて夢見た、未来の断片だった。
テクノロジーが、人々から仕事を奪うのではない。人々を、過酷で危険な労働から解放し、より創造的で、人間らしい仕事へと導く。そんな、温かいデジタル社会。
高虫は、サービスエリアのレストランに入り、窓際の席に座った。
隣のテーブルでは、若い夫婦が、幼い子供に、楽しそうに食事を取り分けていた。
「ほら、このトマト、美味しいでしょう。地元で採れたのよ」
子供が、新鮮なトマトを頬張り、目を輝かせている。
その野菜は、『豊穣のAI』の恩恵を受けて育ったものだろう。AIとドローンが、それぞれの土地に最適な品種を選び、最低限の農薬で、その野菜が持つ本来の力を、最大限に引き出している。
高虫は、ふと、壁にかかったテレビに目をやった。
そこでは、国会中継が流れていた。安野貴率いる『チーム未来』の若き議員が、現政権のデジタル大臣と、AI倫理に関する新しい法案について、激しい、しかし極めて建設的な議論を交わしている。
『感情ではなく、データと事実で語ります。批判より提案を。分断より解決を』
安野が掲げた、新しい政治のスタイルは、確実に、この国の意思決定の形を変えつつあった。
高虫は、その光景を、一人の有権者として、ただ静かに、そして誇らしく、見つめていた。
彼女は、誰にも気づかれることなく、静かにコーヒーを啜る。
目の前にある、何気ない、しかし、かけがえのない平和な光景。楽しそうに笑う、見知らぬ家族。テレビの向こうで、自分たちの未来を、真剣に自分たちの言葉で議論している、新しい世代の政治家たち。
店を出ると、夕暮れの光が、高速道路を黄金色に染めていた。
無人トラックの隊列が、ヘッドライトを点灯させ、まるで未来からやってきた銀河鉄道のように、静かに行き交っている。
その光景を眺めながら、高虫は、自らが歩んできた、長く、険しい道のりを思い出していた。
孤独だった官邸の夜。国民から石を投げつけられた日々。そして、この国の未来のために、断腸の思いで下した、いくつもの決断。
全ては、この風景に繋がっていたのかもしれない。
名もなき人々が、当たり前のように、安全で、美味しいものを食べ、そして、自分たちの未来に、確かな希望を抱いている。
彼女が蒔いた種は、彼女が想像していた以上に、大きく、そして豊かに、実っていた。
蛹が夢見た未来は、今、確かに、ここに在った。
そして、その未来を、さらに豊かなものにしていくのは、もう、彼女の役目ではない。
高虫は、西の空に沈んでいく夕日を、名残惜しそうに、しかし、満ち足りた気持ちで、見つめていた。
彼女は、もう一度、深く、穏やかな空気を吸い込むと、誰にも見送られることなく、静かに自分の車へと戻っていった。




