第26章:受け継がれたバトン
高虫が政界を去り、10年。
彼女の改革を引き継いだ後継政権は、実に有能だった。彼らは、高虫が敷いたレールの上を、忠実に、そして着実に走り続けた。日本は安定し、豊かになった。
だが、いつしか、その安定は「停滞」の、豊かさは「慢心」の、別名となり始めていた。
「このままでは、また同じことを繰り返す」
東京湾岸エリアにそびえ立つ、サイバーセキュリティ企業『YATAGARASU』の最上階。CEOである安野貴は、眼下に広がる夜景を見下ろしながら、苦々しく呟いた。
彼の会社は、今やアジア最強の「デジタルの盾」として、世界にその名を轟かせている。富も、名声も、自由も、全てを手に入れた。政治という、不自由で、面倒な世界に戻る理由など、彼には何一つなかった。
だが、彼は感じていた。
高虫が命懸けでインストールした、日本の新しいOS。その上で動くアプリケーションは、いつしかアップデートを忘れ、少しずつ、時代遅れになり始めていることに。
量子コンピュータ、ブレイン・マシン・インターフェース、そして、人間の知性を超えかねない汎用AIの登場。世界は、次のステージへと、猛烈なスピードで突き進んでいる。なのに、今の永田町には、その変化に対応しようとする気概も、ビジョンも、欠けていた。
そんなある日、彼のオフィスに、二人の若き天才が訪ねてきた。
AI翻訳『KOTOBA』を率いる夏目響と、次世代ドローン『PAPILLON』の創業者、羽生翔太。高虫が育てた、新世代の旗手たちだった。
「安野さん。力を貸してください」
夏目が、単刀直入に切り出した。
「今の政府は、高虫さんが創った遺産を、『維持』することしか考えていません。我々が、次の未来を創るための、新しいルール作り、新しい投資、新しいリスクテイクを、彼らは恐れている。このままでは、日本は『世界一住みやすい、過去の国』になってしまいます」
羽生も、静かに、しかし力強く続けた。
「僕たちは、高虫さんの子供です。そして、安野さん、あなたも。あの人が遺してくれた、この新しい日本を、ただの博物館にするわけにはいかないんです」
安野は、何も答えなかった。
その夜、彼は一人、車を走らせ、鎌倉へと向かった。
高虫の家の前まで来たが、インターホンを押すことはせず、ただ、静かな光が漏れる窓を、遠くから見つめていた。
彼は、高虫が引退する直前の、最後の会話を思い出していた。
『安野君。私が壊した後の、更地になったこの国に、どんな家を建てるかは、あなたたちの世代の自由です。どうか、私という過去に、縛られないでください』
縛られないで、か。
安野は、自嘲気味に笑った。
あんたはそう言うが、あんたが遺したバトンは、あまりにも重すぎる。
彼は、その場でUターンすると、東京へと戻った。
そして、翌日。
安野貴は、10年ぶりに、公式な記者会見の場に、その姿を現した。
いつものパーカーではない。だが、高級ブランドのスーツでもない。日本の若手デザイナーが作った、シンプルで、機能的なジャケット。それが、彼の新しい戦闘服だった。
「本日、私は、仲間たちと共に、新たな政治団体を設立したことを、ご報告します」
彼の言葉に、記者たちがどよめいた。
「その名は、『チーム未来』」
安野は、集まったカメラを、まっすぐに見据えた。
「10年前、高虫蛹という、一人の偉大なリーダーが、この国を、沈没寸前の黒船から救い出してくれました。彼女は、私たちに、未来を諦めないという、一つの『バトン』を渡してくれたのです」
「しかし、バトンとは、ただ持っているだけでは、意味がない。それは、次の走者へと、全力で繋いでいくためにある。我々『チーム未来』は、高虫さんが遺したこのバトンを受け継ぎ、彼女が見た未来の、さらにその先へと、この国を、もう一度、全力で走らせることを、ここに誓います」
それは、カリスマの再来ではなかった。
高虫という太陽に照らされた、次世代の星々が、自らの力で輝き、新たな星座を作ろうとする、決意表明だった。
鎌倉の家で、高虫は、そのニュースを、テレビで静かに見ていた。
画面の中で、かつての若き剣が、今や、頼もしいリーダーの顔つきで、未来を語っている。
その隣には、夏目響と羽生翔太が、少し緊張した面持ちで、しかし誇らしげに、立っていた。
高虫は、そっとテレビを消すと、縁側に出た。
庭には、彼女が大切に育てた花々が、春の光を浴て、咲き誇っている。
「私の役目は、本当に、終わったのですね」
彼女は、空を舞う一匹の蝶を見上げ、心からの、穏やかな微笑みを、浮かべた。
バトンは、確かに、受け継がれた。




