第25章:旧友との再会
鎌倉、海を見下ろす静かな高台。
総理の座を退いて10年、高虫蛹は、古い日本家屋を改装した家で、一人の民間人として、穏やかな日々を送っていた。政界の喧騒から離れ、庭で土をいじり、時折、訪ねてくる孫の顔を見ることが、彼女の何よりの喜びだった。
その日の午後、彼女の元に、一人の予期せぬ訪問者が現れた。
インターホンの画面に映し出された顔を見て、高虫は、少しだけ驚いたように目を見開いた。
宮繰頁。かつて、この国のデジタル主権を巡り、死闘を繰り広げた宿敵だった。
縁側で、二人は、気まずい沈黙の中、向かい合って座っていた。先に口を開いたのは、宮繰の方だった。
「私は、ずっと考えていた。どこで、私は間違えたのか、と。君が、なぜ、あれほどまでに『国家の主権』という、古めかしい概念に執着したのか、私には、最後まで理解ができなかった」
「だが、最近になって、ようやく分かった気がする。君を、そこまで駆り立てたものの正体が」
宮繰は、懐から一枚、古ぼけた新聞の切り抜きを取り出した。
『防衛省技官、過労で自殺か』
その見出しを見た瞬間、高虫の表情から、穏やかな光がすっと消えた。
「亮さんのことを、まだ覚えていてくださいましたか」
「忘れるものか」と宮繰は言った。「彼は、私の部下であり、そして、君の、たった一人の同期だった。藤澤亮だ」
高虫は、遠い目をして、あの日のことを思い出していた。
彼女が、まだ防衛省のサイバー防衛部隊という、男社会の片隅で孤立していた頃。彼女の隣には、いつも、藤澤亮がいた。高虫が『矛』なら、藤澤は『盾』。高虫が徹夜でモニターに食らいついていると、
「蛹ちゃん、少しは休まないと、蝶になる前に干からびちゃうよ」と、彼だけが、彼女の硬い心を解きほぐす冗談を言えた。
その二人が、運命の「事件」に遭遇する。海外からの、日本のダム管理システムへのサイバー攻撃。藤澤の天才的な分析能力が、攻撃の発信源が、ある特定の国の軍関係施設であることを示す、動かぬ証拠を掴んだ。
二人は、その証拠を、上司である宮繰に提出した。
「直ちに公表し、厳重に抗議すべきです!」
息巻く高虫に対し、宮繰が下した命令は、非情なものだった。
「この件は、全て忘れろ」
自らの保身のために、「真実」を闇に葬ることを選んだ宮繰。
藤澤は、自らの仕事の誇りを、信じてきた「正義」を、木っ端微塵に破壊され、数週間後、自ら命を絶った。
『僕が見つけた『真実』には、価値がありませんでした』という、一行の書き置きを残して。
高虫は、彼の亡骸を前に、血の涙を流して誓った。
保身のために真実を捻じ曲げる、この腐敗した構造を、必ず、内側から破壊してやる、と。
それが、彼女が、安定した技官の職を捨て、政界へと身を投じた、本当の理由だった。
「皮肉なものですよ」
高虫は、10年の時を経て、初めて、宮繰に本当の気持ちを語った。
「私が、あの椅子に座ることができたのは、あなたが信奉していた、その『旧世代の構造』そのものが、自らの重みで腐り落ちたからです」
高虫が総理になる直前。当時の総理大臣は、伊吹元幹事長が率いる、最大派閥の領袖だった。
彼は、国民生活を置き去りにして、旧来型の大型公共事業に固執し、その見返りとして、大手ゼネコンから巨額の裏金を受け取っていた。そして、その金の流れを管理していたのが、何を隠そう、ABCD・ジャパンから天下りした、元官僚だったのだ。
その男は、宮繰がかつて、霞が関とのパイプ役として重用していた人物だった。
彼は、ABCD社のクラウドサーバーに、決して表には出せない、裏金のやり取りを記録したデータを、秘密裏に保管していた。自社のサーバーこそが、世界で最も安全な金庫だと、信じ切っていたのだ。
だが、彼は知らなかった。
そのサーバーの脆弱性を、誰よりも熟知していたのが、高虫蛹その人であったことを。
「私が、直接手を出したわけではありません」と高虫は静かに言った。「私はただ、とある週刊誌の記者に、『その金庫には、裏口の扉がありますよ』と、一枚のメモを渡しただけです」
そのメモを元に、週刊誌が雇ったホワイトハッカーが、いとも簡単にサーバーに侵入。裏金の動かぬ証拠が白日の下に晒され、前総理は、あっけなく失脚した。
「最大派閥は、自爆しました。党内は、後継者を巡って泥沼の権力闘争に明け暮れ、国民の政治不信は頂点に達した。そんな中で、消去法的に、派閥の色に染まっていない、クリーンなイメージの私に、白羽の矢が立った。ただ、それだけのことです」
高虫は、宮繰をまっすぐに見つめた。
「あなたが、そしてあなたの会社が作り上げた、その腐敗した癒着の構造こそが、回り回って、私を総理大臣にしたのです。あなたが彼を殺し、私の中に鬼を生み、そして、あなたがその鬼を、玉座へと押し上げた」
宮繰は、言葉を失い、深く、深く、頭を垂れた。
「すまなかった。本当に、すまなかった」
それは、プライドの高い彼が、生まれて初めて口にしたであろう、心からの謝罪の言葉だった。
「もう、いいのです」
高虫は、静かに言った。
「あなたの過ちも、私の怒りも、全ては、もう、この10年という時間が、浄化してくれました。それに」
彼女は、庭を舞う一匹の蝶を見上げ、穏やかに微笑んだ。
「亮君が命を賭して守ろうとしたこの国は、今、彼が夢見た未来よりも、少しだけ、強くなれたと、私は信じていますから」
夕暮れの光が、二人を包んでいた。
長い、長い戦いの歴史が、一人の心優しき天才の死から始まっていたことを、そして今、その魂が、ようやく静かに解き放たれたことを、縁側の紫陽花だけが、静かに見守っていた。




