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第20章:蝶の旅立ち

総理大臣の任期満了を、半年後に控えた、穏やかな春の日。

高虫は、国民に向けて、テレビカメラの前で、静かに語りかけていた。


『――食料自給率は、目標であった50%を達成しました。アジアのデジタルハブとして、北海道と九州に建設されたデータセンターは、フル稼働を続けています。そして何より、この国に、未来は自分たちの手で創れるのだという、確かな自信が芽生え始めています』


世論調査では、高虫内閣の支持率は70%を超え、誰もが彼女の再選を信じて疑わなかった。党内からも、続投を願う声が、圧倒的多数を占めていた。

彼女が望めば、あと4年、あるいはそれ以上、この国の舵を取り続けることは、あまりにも容易だった。


だが、彼女の口から語られた言葉は、日本中の誰もが予想しないものだった。

『私の内閣が為すべき、歴史的な役割は、全て終わりました。よって、私は、きたる総選挙に出馬せず、今任期をもって、総理の職を、そして、政界を、引退いたします』


官邸記者クラブが、蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。

『なぜだ!』『最高のリーダーじゃないか!』『まだ、あなたが必要だ!』

ネット上には、引退を惜しむ声、引き止めようとする声が、瞬く間に溢れかえった。


その日の午後。

総理執務室で、高虫は、ただ一人、納得のいかない表情で詰め寄ってくる安野貴と向き合っていた。彼は、今や、その若さにもかかわらず、次期総理候補の一人として、名前が挙がるほどの存在となっていた。


「高虫さん、どういうことですか。あなたがいなければ、この国は」

「私が、いなければならない国では、ダメなのです」

高虫は、穏やかに、しかしきっぱりと、安野の言葉を遮った。


「安野君。私は、この国のOSを、古いものから新しいものへと、強制的に書き換えるための、いわば『インストール・プログラム』のようなものでした。そのためには、あらゆる抵抗を無視し、時に独裁的とさえ言われるほどの、強い力が必要でした」


彼女は、窓の外に広がる、活気に満ちた東京の街並みを見つめた。

「ですが、新しいOSが正常に動き始めた今、必要なのは、私のような破壊者ではありません。この新しい大地の上で、多様なアプリケーションを咲かせる、新しい世代の才能です。もし、私がこのまま権力の座に居座り続ければ、私は、かつて自分が破壊しようとした、旧世代の利権そのものになってしまうでしょう」


高虫は、安野に向き直った。その瞳は、まるで我が子の成長を見守る母親のように、優しさに満ちていた。

「安野君。あなたや、あなたの世代には、私にはないものがある。常識に縛られない、自由な発想。そして、失敗を恐れない、しなやかな強さです。これからの日本に必要なのは、そういう新しいリーダーシップなのです」


安野は、言葉を失っていた。彼は、高虫が、どれほどの覚悟で、この決断を下したのかを、痛いほど理解していたからだ。


会見の最後に、高虫は、国民に向けて、こんな言葉を残した。

『私は、蛹でした。硬い殻に閉じこもり、古い日本を内側から食い破ることだけが、私の役割でした。ですが、これからは、蝶として、自由に、美しく、大空を飛び立つ時です。その蝶とは、私ではありません。この国の未来を担う、若い世代、あなたたち一人ひとりのことです』


彼女の最後の言葉は、詩のように、日本国民の心に深く刻み込まれた。

任期最後の日。

官邸を去る高虫を、職員たちが、万雷の拍手で見送っていた。


彼女は、黒塗りの公用車に乗り込むと、一度だけ、ゆっくりと振り返り、自分が戦い抜いた、その城を見上げた。


車が、静かに走り出す。

高虫は、車窓の向こうで、遠ざかっていく国会議事堂を眺めながら、そっと胸の内に手を当てた。


そこにはもう、防衛省時代に握りしめていた、あの古いメモはない。

彼女の夢は、もはや彼女一人のものではなく、この国の、新しい世代の心の中に、確かに受け継がれたのだから。


車が皇居の堀を通り過ぎた時、一匹のアゲハ蝶が、まるで彼女の旅立ちを祝福するかのように、空へと舞い上がっていくのが見えた。


高虫は、その蝶を、涙で滲む目で、静かに見送っていた。

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