第19章:豊穣のAI
ABCD社との歴史的な和解から、二年。
世界は、新たな危機に直面していた。アフリカ大陸を襲った未曾有の大干ばつと、東南アジアを沈めた記録的な大洪水。気候変動は、もはや遠い未来の警告ではなく、現実の脅威として、世界の食糧供給網をズタズタに引き裂いていた。
小麦の国際価格は、数ヶ月で三倍に高騰。コメの輸出大国も、自国民の食料を確保するため、次々と禁輸措置に踏み切った。スーパーの棚からはパンや米が消え、世界中で食料を求める暴動が頻発する。「食糧危機」は、世界的なパニックへと発展していた。
日本も、その例外ではなかった。
輸入小麦に頼るパンや麺類の価格は異常な高騰を見せ、食卓を直撃した。テレビでは連日、不安を煽るニュースが流れる。
『今年の天候不順で、国産米の収穫量も大幅に落ち込む見通しです! 我が国は、深刻な米不足に陥るのではないかとの懸念が』
だが、高虫は、官邸でそのニュースを冷静に見ていた。
彼女は、この事態を、数年前から正確に予測していた。そして、そのための布石を、静かに、しかし着実に打ち続けてきたのだ。
その年の秋。
新潟県、広大な越後平野を見下ろす丘の上で、高虫は、集まった国内外のメディアを前に、一枚のフリップを掲げた。
「本日、農林水産省が発表した、本年度の米の作況指数です。『105』。平年を上回る、豊作です」
記者たちの間に、信じられない、というどよめきが走った。
世界中が凶作に喘ぐ中で、日本だけが、なぜ。
「その答えは」と高虫は、眼下に広がる黄金色の稲穂を指差した。「あの空にあります」
記者たちが空を見上げると、そこには、まるで鳥の群れのように、数百機のドローンが静かに編隊を組んで飛行していた。それらは、広大な水田の上を、センチメートル単位の正確さで動き回り、それぞれの稲の生育状況をリアルタイムでスキャンしている。
「あれが、『プロジェクト・ヤタガラス』のもう一つの成果、『豊穣のAI』です」
高虫政権と、ABCD社、そして国内の農機具メーカーが総力を挙げて開発した、次世代のスマート農業システム。それが、この2年間で、日本の農業を根底から変えていた。
ドローンが収集した超高解像度の画像データと、水田に設置された無数のセンサーからの土壌データを、ABCD社が日本国内に建設したデータセンターのAIが瞬時に解析する。
『A地区3番の水田は、日照不足で、窒素が2%不足』
『B地区7番は、病害虫の初期兆候を検知』
AIの判断に基づき、今度は自動走行するトラクターが、ピンポイントで必要な量の肥料や、最低限の農薬を散布していく。水の管理も、全てAIが自動で行う。
そこには、かつて日本の農業を苦しめてきた、経験と勘、そして過酷な肉体労働に頼る姿は、もはやなかった。
「このシステムのおかげで、我々は、気候の変動という『不確実性』を、データに基づく『確実性』で乗り越えることができるようになりました。農家の皆様の平均年齢は、この2年で、10歳以上も若返っています。農業は、若者たちにとって、魅力的な最先端産業へと生まれ変わったのです」
その結果が、世界的な凶作の中での、奇跡的な大豊作だった。
日本の米は、国内需要を完全に満たした上で、なお、大量の余剰が生まれた。
高虫は、その場で、重大な発表を行った。
「政府は、この余剰米を、緊急食糧支援として、飢餓に苦しむアフリカ、そしてアジアの国々へ、無償で提供することを決定いたしました」
それは、単なる人道支援ではなかった。
かつて、石油を中東に依存していたように、今や世界は、食料を日本に依存せざるを得ない状況が生まれつつあった。
日本の農業AIが生み出した米は、21世紀の新たな戦略資源、『コメ・パワー』として、この国の国際的な地位を、劇的に押し上げることになったのだ。
記者会見の帰り道、高虫は車窓から、黄金色の絨毯のような水田を眺めていた。
そこには、若いカップルが、楽しそうにタブレットを操作しながら、ドローンの飛行を監督している姿があった。彼らの笑顔は、この国の未来そのものだった。
デジタル主権を取り戻すという戦いは、GAFAに勝利するためだけではなかった。
それは、この国の足元に眠っていた、農業という最も古くて新しい産業を、最先端のテクノロジーで蘇らせ、国民の命と、国の未来を守るための、長い長い戦いだったのだ。
ヤタガラスが導いた大地は、豊かな黄金色の実りを、確かに約束していた。




