第15章:夜明けの勝利
国民投票の翌朝。
官邸は、まるで通夜のような、重く冷たい沈黙に支配されていた。
「賛成49.8%、反対50.2%」――。
数字の上では、明確な敗北だった。高虫が、そして日本が、未来への扉を自ら閉ざしてしまった瞬間だった。
総理執務室で、高虫は辞任会見の原稿を、静かに推敲していた。法案は、国民の審判に従い、白紙撤回する。そして、この混乱を招いた責任を取り、自分は総理の職を辞す。それが、民主主義国家のリーダーとして、当然の責務だった。
「総理、お時間です」
秘書官が、沈痛な面持ちで告げに来る。
高虫は頷くと、最後の覚悟を決めて、椅子から立ち上がろうとした。
その時だった。
執務室の扉が、ノックもなしに勢いよく開いた。
「高虫さん! テレビをつけてください! 今すぐ!」
血相を変えて飛び込んできたのは、安野貴だった。彼の目には、いつもの皮肉めいた光ではなく、信じられないものを見たかのような、興奮と困惑の色が浮かんでいた。
つけっぱなしになっていた大型モニターに、安野がリモコンを向ける。画面に映し出された緊急ニュースに、高虫は息を呑んだ。
『ただ今入った情報です! 昨日まで全面麻痺していた全国の金融システムが、本日未明から、一斉に正常化した模様です! 現在、全てのATM、オンラインバンキングが、通常通り利用できる状態に』
アナウンサーが、信じられない、という口調で続ける。
『あれほど復旧は困難と見られていたシステムが、なぜ国民投票が終わったこのタイミングで、まるで何事もなかったかのように一斉復旧したのか。専門家も首を傾げており、ネット上では、様々な憶測が』
高虫は、全てを察した。
「彼ら、目的を達成したから、引き揚げたのですね」
「ええ」と安野が頷く。「そして、その引き際が、あまりにも見事すぎて、逆に尻尾を掴ませてしまった。国民は、もう気づき始めています。昨日のパニックが、ただのシステム障害などではなく、投票を操作するための、意図的な『攻撃』だったということに」
その言葉を裏付けるように、別のニュース番組が、新たな世論調査の速報を伝えていた。
『国民投票の結果を受け、本誌が緊急に行った調査です。『もし、金融システムの麻痺がなかったとしたら、あなたはどちらに投票していましたか?』という質問に対し、実に60%以上の方が、『賛成に投票した』と答えました』
高虫は、呆然と画面を見つめていた。
自分たちが、あえて公表しなかった「真実」。それを、国民が、自らの力で、気づき始めていたのだ。
予定時刻を少し過ぎて、高虫は会見場に現れた。
待ち構えていた記者たちは、誰もが総理の辞任を確信していた。伊吹元幹事長は、党本部で「当然の結果だ」と、勝利宣言の準備をしていた。宮繰頁は、六本木の社長室で、祝杯のシャンパンを開けていた。
高虫は、演台に立つと、まず深々と頭を下げた。
「国民投票の結果を、厳粛に受け止めます。国家データ主権法案は、ただ今、この瞬間をもって、完全に白紙撤回いたします」
やはり辞任か。記者たちが、一斉に記事を打ち始める。
しかし、高虫は顔を上げると、彼らの予想を、そして世界の予想を、再び裏切る言葉を放った。
「ですが、私は、総理の職を、辞いたしません」
会見場が、どよめきに揺れる。
「なぜなら、私は、この国民投票の結果を、敗北だとは考えていないからです」
高虫の声が、ホールに響き渡った。
「国家規模のサイバーテロという、卑劣な脅迫が行われる、極めて異常な状況下で。それでもなお、我が国の国民の半数近くが、目先の利益ではなく、未来のための痛みを引き受けるという、気高い選択をしてくださいました。私は、この国の国民を、心の底から誇りに思います」
彼女は、カメラの向こうの国民に、まっすぐに語りかけた。
「これは、敗北ではありません。脅しには屈しないという、日本の民主主義が勝ち取った、偉大な『勝利の夜明け』です。そして、この国に、未来を諦めない人々がこれだけいるという希望を胸に、私は、改めて戦うことを決意しました」
彼女は、そこで初めて、鋭い視線を投げた。それは、永田町の蜘蛛の巣と、六本木ヒルズの司令塔に突き刺さる、宣戦布告の刃だった。
「国民の皆様の判断を、卑劣な手段で歪めようとした者たちがいます。国民の生活を人質に取り、この国の民主主義を内側から破壊しようとした、真の『敵』が。私の内閣は、これより、その旧世代の利権と、それに癒着する勢力の不正を、徹底的に解明し、断固として、これを排除していくことを、国民の皆様に、固くお誓い申し上げます」
それは、辞任会見ではなかった。
国民という、最も強い「民意の盾」を得た、高虫蛹の、高らかな復活宣言だった。
六本木ヒルズで、宮繰頁は、テレビ画面の中の彼女を睨みつけ、持っていたシャンパングラスを、怒りに任せて壁に叩きつけた。
「勝ったはずだった。
だが、自分は、この国の国民の気高さを、そして、高虫蛹という政治家の本当の恐ろしさを、完全に見誤っていたのだ」
夜明けは、まだ来ない。
いや、今まさに、始まってしまったのだ。




