第14章:国民の審判
国民投票、当日。
日本の空は、まるで国の混乱を映し出すかのように、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われていた。金融システムの麻痺は依然として続き、街には警察官が溢れ、ATMの前には、昨日からの長い行列が、不穏な静けさをもって続いていた。
テレビのニュースは、朝からこの異常事態をトップで伝え続けている。
『専門家によりますと、これほど大規模なシステム障害は前代未聞であり、全面的な復旧の目処は、全く立っていないとのことです』
アナウンサーは、国民投票そのものの延期も示唆していた。
だが、高虫総理は、予定通りの実施を、断固として譲らなかった。
「この状況だからこそ、我々は、我が国の意志を示さなければなりません」
その言葉の裏で、彼女がどれほど過酷な決断を迫られていたかを知る者は、官邸の中でも、ほんの一握りしかいなかった。
投票開始時刻の、わずか数時間前。総理執務室で、高虫は安野から渡されたUSBメモリを、ただじっと見つめていた。
『USS Jimmy Carter』そして『ABCD HQ』。
この小さなチップの中に、敵の正体を暴き、世論を大逆転させるだけの、爆弾が眠っている。
「これを公表すれば、我々は勝てますか」
高虫は、静かに安野に問うた。
安野は、疲れきった顔で、しかしはっきりと答えた。
「勝てます。間違いなく。同盟国からの裏切り。国民の怒りは、ABCDと、彼らと繋がる伊吹のような連中に向かうでしょう。賛成票が、地滑り的に勝利するはずです」
「その代償は?」
「日米安全保障条約の、事実上の崩壊。そして、それに伴う、経済的、軍事的な、予測不能な混乱です。もしかしたら、この金融パニックが、可愛く見えるほどの」
安野は、言葉を続けた。「あなたが目指してきた『デジタル主権』は手に入るかもしれない。でも、そのために、他の全てを失うことになるかもしれない」
沈黙が、部屋を支配した。
高虫は、ゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がる、灰色の東京の空を見つめた。
防衛省時代、彼女が守ろうと誓った、この国の平和と、国民の穏やかな暮らし。その両方を、天秤にかける時が来た。
彼女は、何を夢見て、この椅子に座ったのか。
GAFAという黒船と戦うため。デジタル主権を取り戻すため。それは、間違いない。
だが、その目的は、一体何のためだったのか。
それは、この国に暮らす人々が、他国の顔色を窺うことなく、自らの未来を、自らの手で決められる、真の独立国家となるためではなかったか。
もし、今、この証拠を公表してしまえば、それは、国民から「選択の自由」を奪うことに他ならない。
外国からの攻撃という、あまりに劇的な「真実」を突きつけられれば、国民は冷静な判断などできはしないだろう。それは、怒りと恐怖に後押しされた、一種の「強制された選択」になってしまう。
それでは、意味がない。
彼女が目指した、「国民が自ら決める」という理想とは、最も遠い場所にある。
高虫は、振り返った。その顔には、もはや迷いはなかった。
彼女は、デスクの上のシュレッダーに、静かにUSBメモリを差し込んだ。
「高虫さん!?」
安野が、驚愕の声を上げる。
ウィーン、という無機質な作動音と共に、ヤタガラスの眼が掴んだ、あまりにも重い真実は、誰にも知られることなく、細かなチップの残骸へと変わっていった。
「我々は、このカードを使いません」
高虫は、きっぱりと言った。
「国民の皆様には、この金融パニックという、理不尽な逆風の中で、それでもなお、自らの良心と、未来への希望を信じて、判断していただきたい。たとえ、その結果、我々が負けることになったとしても、です」
「本気ですか」
「ええ。それが、私がこの国のリーダーとして、国民の皆様の『判断力』を、最後まで信じるという、誠意です」
それは、政治家としては、あまりにも愚かで、青臭い決断だったのかもしれない。
だが、高虫蛹という、一人の人間が守り抜こうとした、最後の理想だった。
午前7時。
全国の投票所が、静かに開場した。
人々は、不安と、怒りと、そして、かすかな迷いを胸に、それぞれの未来を選択するために、重い足取りで、投票用紙へと向かっていった。
テレビの出口調査の速報が、始まった。
『投票を終えた方に伺いました。あなたは、国家データ主権法に、賛成ですか、反対ですか』
日本中が、固唾を飲んで、その数字を見守っていた。
高虫は、官邸の自室で、たった一人、テレビの画面を見つめていた。彼女は、もう何も語らない。ただ、国民が下す審判を、静かに待つだけだった。
夜が更け、開票が始まった。
日本列島を模した巨大なボードの上を、賛成を示す青と、反対を示す赤のランプが、めまぐるしく点灯していく。
序盤、開票が進む都市部では、金融パニックの影響を直接受けた有権者が多いのか、反対派の赤が、圧倒的な優勢で先行した。
『やはり、ダメだったか』
官邸の誰もが、敗北を覚悟した。
だが、深夜を回り、地方の票が開き始めると、流れが、ほんの少しずつ、変わり始めた。
高虫が訪れた、あの町工場がある工業地帯で。スマート農業に未来を託した、あの農村地帯で。賛成を示す青いランプが、赤の濁流に抗うように、一つ、また一つと、灯り始めたのだ。
その光は、あまりに小さく、弱々しかった。
だが、それは確かに、高虫が自らの足で歩いて、人々の心に直接届けた、希望の光だった。
開票率、99%。
日本中が、息を止めていた。
テレビの画面に映し出された数字は、誰もが、そして高虫自身さえも、予想しなかったものだった。
賛成:49.8%
反対:50.2%
その差、わずかに、0.4ポイント。
数にして、数十万票。
高虫は、負けたのだ。
だが、その数字は、圧倒的な物量と、国家規模のサイバー攻撃という卑劣な脅迫をもってしても、この国の国民の半分近くは、未来のための痛みを引き受ける覚悟があった、という事実を、残酷なまでに、示していた。
それは、敗北でありながら、同時に、一条の光でもあった。
高虫は、静かに目を閉じ、唇を噛み締めた。
国民の審判は、下された。




