第二部:羽化(うか) 第11章:デジタルの関ヶ原
国民投票の実施が正式に閣議決定されると、日本は瞬く間に二つの色に塗り分けられた。
『未来を取り戻すか、現状に甘んじるか』
高虫政権が掲げた、賛成派のキャッチコピー。
『今の便利な暮らしを、守り抜く』
反対派が掲げた、シンプルで、強力なメッセージ。
投票日まで、わずか一ヶ月。日本全土を舞台にした、史上最大の世論戦の火蓋が切られた。
先に動いたのは、圧倒的な資金力と情報拡散力を持つ、宮繰頁率いる反対派だった。
その物量作戦は、まさに電撃的だった。
テレビのゴールデンタイムには、人気俳優やアイドルを起用したCMが、15分おきに流された。
『スマホが使えなくなったら、おばあちゃんと連絡できなくなっちゃう』
『便利な決済がなくなったら、お店のレジはパニックに』
映像は常にソフトで、国民の日常に寄り添う優しい作りだったが、その裏には「今の生活を失う」という、巧みに計算された恐怖が刷り込まれていた。
インターネットを開けば、あらゆるサイトの広告が反対キャンペーンにジャックされた。人気動画クリエイターたちは、こぞって「データ主権法、マジやばいって話」というタイトルの動画をアップし、若者たちの不安を煽る。SNSには「#今の暮らしを守ろう」というハッシュタグが、巨大なトレンドとなって国中を駆け巡った。
宮繰は、六本木ヒルズの司令室で、リアルタイムで更新される世論調査の数字を満足げに眺めていた。
「反対、65%。賛成、25%。残り10%が態度未定か。勝負は見えたな」
彼は、高虫の国民投票という賭けを、愚者の最後の悪あがきだと、心の底から嘲笑っていた。
「民意など、金で買える。歴史が常に証明してきたことだ」
一方、高虫陣営は、その資金力において、象と蟻ほどの差があった。テレビCMを大量に打つことなど、到底できない。
高虫が選んだ戦術は、あまりにも古風で、非効率に見えるものだった。
「私が、全国を回ります。一人ひとりに、直接語りかけます」
彼女が最初の遊説先に選んだのは、テレビのクルーが眉をひそめるような場所だった。東京の東、かつて日本のものづくりを支えたが、今や海外製品に押されてシャッター街と化した、寂れた工業地帯。その片隅で、今も細々と金属加工を続ける、従業員十数人の町工場だった。
作業場の油の匂いの中、高虫は集まってくれた工場の社長と、年配の職人たちに、深く頭を下げた。
「皆様の貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
工場の社長は、腕を組んだまま、猜疑心に満ちた目で高虫を見つめていた。
「総理。あんたがやろうとしてることで、アメリカを怒らせて、大企業がみんな潰れたら、俺たちみたいな下請けは、真っ先に仕事がなくなるんだ。これ以上、俺たちの生活を脅かさないでくれ」
それは、反対派のCMが語る不安、そのものだった。
しかし、高虫は怯まなかった。彼女は、持参したタブレット端末を操作し、一枚の設計図を映し出した。
「社長。これは、3年前に御社が開発された、特殊な金型の設計図ですね。素晴らしい技術だと、専門家の方々から伺っております」
「それが、どうした」
「この金型と、全く同じ構造を持つ製品が、今、東南アジアの市場で、御社の半値以下で出回っていることを、ご存知でしょうか」
社長の顔色が変わった。
「なんだと? そんなはずは」
「彼らは、どうやってこの精密な設計図を手に入れたのか。社長、工場の設計データは、どの会社のクラウドサービスで管理されていますか?」
社長は、ハッとした顔で「ABCD社だ」と答えた。
「それが、答えです」と高虫は静かに言った。「皆様が、汗とプライドで築き上げてきた大切な技術データは、海外のサーバーに置かれた瞬間、日本の法律では守ることができません」
「彼らの利用規約には、小さな文字でこう書かれています。『当社は、サービスの向上のため、お客様のデータを分析・利用することがあります』と。皆様の虎の子の技術が、知らぬ間に海外の競合に分析され、安価な模倣品を生むための『武器』として使われているのです」
職人たちの間に、どよめきが走った。
「国家データ主権法は、皆様から便利な生活を奪うための法律ではありません」
高虫は、一人ひとりの目を見て、力強く訴えた。
「この法律は、皆様のような、真面目にものづくりに取り組む人々が、理不尽にその技術や誇りを奪われることのないよう、守るための『盾』なのです。自分たちの資産を、自分たちの国土で守る。ただ、それだけの、当たり前の国になるための法律なのです」
油に汚れた職人の一人が、ぽつりと呟いた。
「そういうことだったのか」
高虫が工場を後にする時、腕を組んで彼女を睨みつけていた社長が、深々と、本当に深々と、頭を下げた。
「総理。俺たちは、あんたを誤解していた。頑張ってくれ」
その日の夜、高虫はSNSのライブ配信で、この町工場の出来事を、自らの言葉で語った。視聴者は、大手メディアのニュース番組には遠く及ばない。だが、その小さな画面の向こうで、心を動かされた人々が「#未来のための盾」というハッシュタグをつけて、彼女の言葉を拡散し始めていた。
デジタルの関ヶ原。
圧倒的な物量で西から迫る、宮繰の反対派。
地方の小さな声を一つずつ拾い集め、東から立ち向かう、高虫の賛成派。
日本の未来を決める戦いは、まだ始まったばかりだった。




