第10章:国民投票
「ABCDショック」が日本を襲った日の夜。
総理大臣官邸、西階段の大ホールは、臨時で開かれる総理会見のために、昼間以上の数の記者とカメラで埋め尽くされていた。誰もが、高虫の口から語られる言葉を、固唾を飲んで待っている。
「法案の撤回」「国民への謝罪」「あるいは、退陣」
記者たちの間では、そんな悲観的な憶測だけが囁かれていた。株価は暴落し、経済界は大混乱に陥り、同盟国であるアメリカからは、戦後最大級の圧力をかけられている。もはや、高虫政権に選択肢など残されていないように見えた。
午後9時。
予定された時刻通りに、高虫は一人で演台に立った。
その顔に、やつれた様子はない。むしろ、吹っ切れたような、静かな覚悟に満ちた表情をしていた。無数のフラッシュが焚かれる中、彼女は深々と一礼し、マイクに向かった。
「国民の皆様。そして、我が国の経済活動を担ってくださっている全ての企業の皆様。この度の市場の混乱、そして将来へのご不安に対し、内閣総理大臣として、まず心よりお詫びを申し上げます」
謝罪の言葉からの始まり。やはり、撤回か。多くの記者がそう確信し、ノートパソコンを叩く指に力を込めた。
「しかし」と、高虫は顔を上げた。その声は、詫びの言葉とは裏腹に、少しも震えていなかった。
「私は、『国家データ主権法』を、断じて撤回いたしません」
会見場が、どよめきに包まれた。信じられない、という表情で記者たちが顔を見合わせる。この状況で、まだ戦うというのか。
「なぜなら、この問題は、単なる一法案の問題ではないからです。これは、私たちの国の未来の形を、そして、私たちの子供たちの世代に、どのような日本を遺すのかを決める、根源的な問いだからです」
高虫は、カメラの向こうにいる、全ての国民に語りかけるように、言葉を続けた。
「ある海外企業から、『我々の言うことを聞かなければ、お前たちの経済を止めるぞ』と、そう脅されています。そして、一部の政治家やメディアは、『総理が余計なことをするからだ』『波風を立てずに、今まで通り彼らに従っていればいい』と、そうおっしゃいます」
彼女の声に、初めて熱がこもり始めた。
「本当に、それでいいのでしょうか。目先の便利さや、一時的な経済の安定と引き換えに、国家の主権を、未来の選択肢を、他国の一企業に明け渡してしまって、本当にいいのでしょうか。それは、果たして独立国家と呼べるのでしょうか」
「幕末の日本は、黒船の脅威の前に、国論が二つに割れました。開国か、攘夷か。しかし、その根底にあったのは、『この国を、外国の言いなりにはさせない』という、全ての日本人が共有した、一つの気概だったはずです」
高忠の言葉は、単なる政治演説ではなかった。それは、国民一人ひとりの誇りと、魂に直接問いかける、悲痛なまでの叫びだった。
「この問題の最終的な判断は、私一人が、あるいは永田町の政治家たちだけで、下すべきではありません。この国の主権者である、国民の皆様、お一人おひとりが、お決めになるべきだと、私は固く信じます」
そこで、彼女は一つ、大きく息を吸った。
そして、日本国憲政史上、誰も予想しなかった爆弾を投下する。
「よって、政府は、憲政史上初となる、個別の法案の是非を問うための国民投票を実施することを、ここに宣言いたします」
会見場は、静寂の後、大爆発したような喧騒に包まれた。
「国民投票だと!?」「正気か!」「前代未聞だ!」
怒号とフラッシュの嵐の中、高虫は動じない。彼女は、最後の言葉を、はっきりと告げた。
「問いは、ただ一つです」
「『日本のデジタル主権を、GAFAに明け渡すのか、それとも、痛みを伴ってでも、我々の手に取り戻すのか』」
「この国難に、共に立ち向かってくださることを、国民の皆様に、心よりお願い申し上げます」
深く、長い一礼。
高虫は、記者たちからの質問を一切受け付けることなく、毅然とした態度で会見場を後にした。
残されたホールは、パニック状態だった。
伊吹ら党の重鎮たちは、テレビ中継を見ながら怒り心頭に発し、宮繰頁は、六本木ヒルズの社長室で、面白そうに口の端を吊り上げていた。「面白い。受けて立ってやろう。金と物量で、お前たちの民意とやらを、完膚なきまでに叩き潰してやる」
誰の予想も超えた、高虫の最後の賭け。
それは、永田町の権力闘争を飛び越え、GAEFAという巨大な敵との戦いを、国民一人ひとりを巻き込んだ、国家の総力戦へと変貌させた瞬間だった。
かくして、第一部の幕は下りる。
日本の未来を賭けた、「デジタルの関ヶ原」の火蓋が、今、切って落とされたのだ。




