最弱の村人、実は魔王の血を引く者だった――
この村で、カイ・エルノという名を知る者はほとんどいない。
正確には「知ってはいるが、覚えていない」。
それくらい、カイの存在は空気のように地味で、目立たず、特にこれといった特技もなければ、魔力も剣の才もない。村での役割は、朝の水汲み、鶏の餌やり、井戸の掃除、壊れた柵の修理……いわゆる「雑用係」だった。
今日もまた、陽が登る前から井戸の前に立ち、桶を下ろしては水を汲む。汗を拭う袖すら、ほつれてボロボロだった。
「おーい、カイー! 鶏小屋の扉、また壊れてたぞー。直しとけよー!」
遠くから、村の少年たちの笑い声が響く。カイは顔をしかめることもせず、小さく手を振った。慣れていたのだ。笑われることにも、無視されることにも。
ただ一人――親友のリオだけは、そんなカイに時折、妙な視線を向けていた。
「お前、なんでいつも怒らないんだよ。あいつら、完全にナメてるぞ?」
背の高い、銀髪の少年。村の狩人見習いで、剣の訓練でも優秀とされているリオは、カイとは対照的に皆から一目置かれる存在だ。
カイは首をすくめるように笑った。
「怒ったって、変わらないだろ? どうせ俺は“最弱の村人”なんだから」
だが、その日、事件は起こった。
昼過ぎ。村の広場で子どもたちが遊んでいると、森から小動物――いや、何かに取り憑かれたような黒いウサギが突如飛び出してきた。
目は真っ赤に染まり、泡を吹いて暴れている。
「キャアアアアッ!」
子どもたちが悲鳴をあげる。その瞬間、カイの身体が自然と動いていた。
走る意識もない。ただ、気づけば腕を伸ばし、飛びかかってくるウサギの前に立っていた。
刹那。
バシュッ!!
風が渦巻くような衝撃が走り、ウサギはまるで透明な壁にぶつかったかのように吹き飛ばされ、動かなくなった。
場が静まり返る。
「え、今の……?」
「なんで……カイが?」
誰かが呟いた。
だが、すぐに誰かが笑った。
「まぐれだろ、まぐれ! ウサギが勝手に飛び跳ねただけだって!」
場が笑いに包まれる中、リオだけが黙ってカイの手を見つめていた。
その手のひら――中心が、ほんのりと赤く光っていたことに気づいていたのは、リオだけだった。
その夜、カイは村の古びた神殿の掃除を頼まれ、いつものように黙々と働いていた。
その隅に腰を下ろしていた、村の長老と呼ばれる老人が、ぽつりと語り出した。
「……この村にはな、古い言い伝えがある」
「……言い伝え?」
「ああ。かつてこの大陸を支配していた魔王は、討伐される直前、ひとつだけ血を残したという。自分の力のすべてを封じる代わりに、生まれ変わる“器”を残すとな……」
カイは手を止めた。
老人は、ふっと笑った。
「ま、ただの昔話さ。今の子どもたちはもう誰も知らん。だがな……もし、お前の中に、時折“力”のようなものを感じたことがあるのなら――気をつけるんじゃな」
「……!」
老人の目が、深く、どこか恐ろしいほど静かにカイを見つめていた。
胸の奥が、ざわつく。
あの風のような衝撃。あの、赤い光。
あれは、まさか――
(俺の中に……何かが、あるのか?)
知らなかった。自分が“普通”じゃない可能性など、一度も考えたことがなかった。
だがこの夜、カイの中で“日常”は、音を立てて崩れ始めたのだった。