九
赤坂の一角に佇む料亭「松籟」。築百年を超える建物は、幾多の密談の場を提供してきた。その歴史の重みを湛えた廊下を、防衛装備庁の志村は畏怖の念を抱きながら進んでいた。
「こちらでございます」
女将の静かな声に導かれ、志村は上段の間の前で立ち止まる。歳月を経た床板が、かすかに軋む。
「お通し致します」
襖が開かれ、志村の瞳が見開かれた。正面に、あの御仁が――。齢九十を超えてなお、戦後日本の『深層』を動かし続ける存在が座していた。その左右には、与党幹事長の浅岡晃と、野党書記長の鷺坂が控えている。
「志村君だね」
浅岡の声は、老練な政治家特有の、柔らかさと鋭さを併せ持っていた。
「は、はい」
慌てて深々と頭を下げる志村に、浅岡は穏やかな声で語りかけた。
「顔を上げたまえ。我々には、君に理解してもらわねばならないことがある」
浅岡の言葉には、表層の穏やかさと、底知れぬ重みが共存していた。
「我が国の立ち位置について、だ」
浅岡は言葉を紡ぐ。ロシアの一部勢力による現政権転覆の企て。それを支援する米国内の特定勢力の存在。そして――。
「日米露三カ国間には、その海域における深海調査を禁止する密約が存在する」
志村の背筋が凍る。横須賀の部隊が探査している、まさにその海域のことだ。
「そして、我が国内にも」浅岡は一瞬、目を伏せる。「米国のその勢力と呼応する者たちが存在している」
重苦しい沈黙が室内を支配する。志村は直感的に理解していた。この場で語られる言葉の一つ一つが、戦後日本の「均衡」に関わるものだということを。
「我々は、君にその密約を守ってもらいたい」
浅岡の言葉に、志村は深く頷いた。彼には選択の余地などない。この「深層」の力学の前では。
その時、九十余年の時を生きた御仁が、かすかに唇を開いた。
「支那の介入は、望まない」
その一言には、戦後の日本を支えてきた「均衡」の全てが込められていた。
志村は静かに立ち上がるよう促される。襖が閉じられる直前、彼は背後で交わされる囁きを聞いた。
「あの海域は、決して開かれてはならない」