敗戦と諜報
一九四五年二月、クリミア半島のヤルタで運命を決する会談が行われていた時、東京の某所では一人の男が一通の暗号電を読んでいた。
「ソ連、対日参戦の意向を示唆」
情報部の柏木大佐は、静かに紙を畳む。既に時は遅すぎた。しかし、それは諦めを意味しない。むしろ、新たな戦いの始まりを告げる合図だった。
「民族自決」――その言葉は、敗戦後の日本のあり方を決定づける鍵となるはずだった。そして、その実現のために必要なものは、技術による自立だった。
「米国の原子力技術、そしてソ連の音響工学」柏木は暗闇の中で呟く。「両国は、互いを牽制するために、我々の技術者を必要とするだろう」
三月に入り、東京への空襲が激化する中、柏木は極秘の指令を発していた。帝国海軍の音響技術研究資料、そして陸軍の電波兵器の設計図。それらは細分化され、各地の研究者たちの手元に分散して保管された。
表向きには、これら全ての研究は終戦と共に停止される。しかし実際には、データは決して失われることはなかった。
「私たちの役目は、まだ終わっていない」
柏木の言葉に、若い情報将校たちが深く頷く。彼らの多くは、戦後、民間企業の技術者として生きていくことになる。そして、その技術力は、やがて米ソ両国の関心を引くことになるだろう。
八月十五日。敗戦の詔勅が流れる中、柏木は最後の暗号電を発信していた。
「技術は、我が民族の魂なり」
その日から十七年後、日本海の深海に設置された「エコー」システムには、米ソ両国の最先端技術と共に、かつて日本が独自に開発していた音響技術が組み込まれていた。
それは偶然ではなかった。戦後の混乱期に、日本の技術者たちは着実に情報を収集し、そして保持し続けていた。彼らは、表向きは敗者でありながら、決して技術立国としての誇りは失わなかったのだ。
「民族自決」――その言葉は、諜報員たちの胸に刻まれた標であり続けた。そして、その意志は確実に次代へと継承されていった。
一九六二年、「エコー」システムの制御コードに日本語が使用された時、それは戦後の諜報員たちの静かな勝利を示す証となった。彼らは、敗戦の中にあっても、決して諦めることはなかったのだ。




