8、100か0か
朝練のため、早めに学校に着いて下駄箱を開けると、上靴の上に何かが乗っていた。
薄ピンクの封筒で、表は「楢崎先輩へ」とあり、裏返すと「川島心海」とある。
誰……? 川島心海なんて子、知らない……。
っていうか、懐かしい。小学校低学年以来のラブレターだ。あれは確か、風邪をひいた時に届けてくれた連絡袋を開けるとラブレターが入っていたのだ。甘酸っぱい思い出だ。
それにしても、今でもラブレターって健在なんだな。
「川島心海って誰だ?」
ビックリした。真横から一臣の声がした。
よく平気な顔して話しかけてこれるな、こいつ。
何日振りの一対一だろう。
この前のキスと、その後のぎこちない期間はひょっとして夢だったのか?とさえ思ってしまう。
あまりに普段通りの喋り方に、俺もついつい今まで通りに答えていた。
「知らん。って言うか見るなよ」
「隣の下駄箱なのに、見ない方が無理あるだろ」
封筒を開けてみると、薄ピンクの便箋に小さな可愛い文字で、「好きです。放課後、体育館裏に来てください」とだけあった。
「まいったな……」
「まいってるんだ?」
「今日、歯医者の予約してたんだけどな……」
「そっち?」
「人気の歯医者だから、四時半からしかあいてなくて、ダッシュで帰ったらいけると思って一か八かで予約してたんだけどな……」
「虫歯があるのか?」
「いや、定期検診だからキャンセルするわ」
「この子と付き合いたいのか?」
「いや、断るけど」
「だったら歯医者に行けよっ」
「だって待ちぼうけ……」
「待ちぼうけの時点でフラれたって分かるだろ。わざわざキャンセルするほどのことか?」
「いや、やっぱ人として……。キャンセルするわ」
「こっちの都合も考えん見ず知らずの人に、よくそこまで想ってやれるな。お人好しにもほどがある。オレだったら、読みもせんとビリビリに破いてるぞ」
「お前、普通に話してくれるんだな」
一臣の体が緊張したように固まった。
普段は堂々としているこいつの、こんな余裕がない顔は初めてだった。
部室に向かって並んで歩いていた一臣が、立ち止まって俺を見下ろしてきた。
「こっちのセリフだ。オレが怖くないのか?」
「別に。さすがに朝の学校で俺になんかしようとはしないだろ」
「確かに」
「だから怖くねーよ」
「キスしてごめん」
「ぶはっ」
謝りたくて仕方なかったという速攻の早口な謝罪に、俺は吹き出した。
なんかもう怒りとか全くない。なんでさっさと話し合わなかったんだろうとすら思えてきた。
「……お前とはずっとこんな関係でいたかった。だから、オレの気持ちは一生押し殺すつもりだった。けど、お前がけしかけるからだ。しかも、シカトし出したのはお前の方だろ。オレはずっと普通にしてたつもりだ」
「……すまん……」
思わずしょんぼりした俺に、一臣は小さく笑った。
「いや、オレのせいだな。桜井先生にお前のことを悪く言った罰だな。……そんなに悪く言ったつもりもないけどな。聞かれたことをありのままに伝えたら、なんか勝手にお前の好感度が下がったんだ」
「凄い悪口言う~……」
「自業自得だろ。けど、その時、思ったんだ。親友だったらフォローしていたはずだと。お前の応援をしていたはずだと。オレはお前を親友として見ていないと」
「…………」
「お前が本気になってるのが怖かったんだ。悪かった」
「気にすんなよ。大したことじゃないって」
「まさかカミングアウトすることになるとは思ってなかったな」
「安心しろよ。アウティングはしない」
「お前はするような奴じゃないだろ。……でも助かる」
「自覚したのはいつからだ?」
「……小学六年くらいか。お前のことばかり考えてた。でも、熱い友情のようなものだと思っていた。正確には思おうとした。そんなはずはないというか。認めたくないというか……」
「そうか……」
「でも、やっぱりおかしいと確信したのは中学くらいだ。周りは女子に興味があるのに、オレは全く興味が持てない。相変わらず、お前のことばかり考えてた。今も初恋がずっと続いてるみたいな感じだ」
「全く気付かなかった……」
「オレがゲイだなんて考えてもいなかっただろ」
俺は素直に頷くしかなかった。
「中学くらいが一番悩んでいた。女子と付き合ったりもしたが、やっぱり無理だった。今は悩んでも仕方ないと割り切ってる。これがオレだと」
「そっか」
「日に日に隠し通せる自信もなくなってきてたしな。この際だから全部言う。お前と別れたカノジョとオレが付き合ったことがあっただろ? お前のことを抱けないから、間接的にお前を抱きたくなったんだ」
唖然とする俺に、一臣は小さく鼻で嗤った。
「引いただろ? あれは最低だった。でも、もう、オレ自身でもどうしようもないんだ。感情をコントロールできない。お前が思うほど、オレはいい奴じゃないんだ。なにを仕出かすか分からんから、これからオレには関わらない方がいいぞ」
「えっ?」
俺は激しく動揺した。聞き間違いかと思った。
十四年間も今まで当たり前のように毎日一緒にいたのに、突然何を言ってんだ。
「待てよ。関わるなって……もしかして、俺ら、もう喋ったりできなくなるのか?」
「そういうことだな」
「どういうことだよ。分かるように説明してくれよ」
「……ずっと考えてたんだ。お前にカミングアウトして、それから話さなくなって……そのままでいいんじゃないかと」
「ちょっと待て。自己完結するな。話さなくなったのは、どう接したらいいのか分からなかっただけだ。ずっとそのまま話さなくなるとか考えてなかった。お前のことは好きだし、今まで通り仲良くしていきたい。これから関わらないでいくとか、俺、そんなん無理なんだけど」
「簡単に好きとか言うな! 我慢できなくなるだろ!」
真っ直ぐ射抜くような一臣の視線が、恐ろしいほど鋭くなった。
「オレの好きとお前の好きは違う。今の台詞でオレがどれほど嬉しいのか分かってないだろ? 誘ってるのか? どうせ違うんだろ? 手は出せない、けどそばにいなきゃいけない。悪いけど、オレ、辛いんだ」
「…………」
「カミングアウトしたのに、今まで通りの関係なんてもう無理だろ」
ちょっと待ってくれ。なんでそうなる?
思いがけない言葉に戸惑う。俺の中で納得いかない思いが溢れる。情報が処理しきれない。
なぜそうなるのか?
「無理じゃない。なんで無理なんだよ? できるだろ。ついさっきも普通に話せてただろ。今まで通り、普通に話せばいいだけだろ」
「お前のそばで普通にしてるのが辛いって言ったばかりだぞ」
「それなら、俺はお前がそばにいないのが辛いぞ。俺の気持ちはどうなるんだよ? 仲直りしたんだし、今まで通りに過ごせばいいだろ」
一臣は深い溜め息を吐いた。
「お前は分かってない」
「なにが?」
「遼介、お前、オレがゲイだと聞いて嫌いになってないだろ」
「ああ、そうだな。ビックリしたけど、嫌いにはならないな。心配すんな。そんなことで一臣のことを嫌いになったりしないぞ」
「だから困ってんだ。引かれたらショックだったけど、そのまま気持ちも冷めて終われた。けど、この数日、お前はオレのことを気にかけてただけで嫌ってなかっただろ。これからも普通に話したいとか言ってるし」
「そらそうだろ。十四年も一緒にいたんだし、俺にとって一臣は親友以上で体の一部みたいな」
「もうやめろ! そんなことを言われたら、オレは期待してしまうんだ。脈があるんじゃないかとお前を口説きたくなるんだ。親友のお前を!」
「…………」
「お互いのためだ。オレに関わるのはもうやめとけ」
あっさり背中を向けて去っていく一臣に、俺は何も言えなかった。
ショックだった。尋常じゃない喪失感が俺を襲った。
恋愛って、100か0しかないのか。
無理なら、じゃあ友達で、ってならないのか。あんなに好きだった感情なのに、受け入れてもらえないと分かった途端、簡単に捨てられるものなのか。そばにいることすら、もう無理になるのか。
勝手すぎるだろ。こっちは、勝手に好きになられて、勝手にもう関わるなと言われて。
なんなんだ、この感情は。
――俺がフラれた気分だ。