6、一臣がいない世界
あれから、俺は一臣と何も話せなくなった。
一臣が嫌になったとか、嫌悪感が沸くとか、そういうことは一切ない。正直なところ、まだ混乱している感じだ。
一臣も、敢えて俺に話しかけてこない。俺の出方を待っている感じだ。
一度話す機会を逸すると、もう次が見つからない。まるで今まで一度も関わったことがなかったかのような関係になってしまった。
だが、明らかにお互いに意識はしていた。
すれ違い様の不自然なまでのシカト。それは、逆に一臣の存在を肌でキツく感じた。視線なんて、気付かない振りが難しいほど、レーザー光線のようにキツく感じる。
「お前らケンカか? いい加減、仲直りしろよ。長ぇーよ。こっちも気を遣うんだよ。ひょっとして恋愛絡みか?」
俺たちのことをよく知る、いやよく知らない奴らまで、頼むから早く仲直りしてくれと言ってくる。
恋愛絡みと言えば恋愛絡みだ……。でも、仲直り云々のレベルのケンカじゃない。そもそもケンカでもない。
だからいつも、釘を刺される度に、
「いや、別になにも……そのうち喋る」
と、適当に濁して逃げている。
そうだ。俺は逃げている。一臣から。一臣の感情から。
それは、どうしても認めたくない感情だからだ。
今思えば、そういうことだったのかと思い当たる節があった。
中学三年生の時、放課後にマックで一臣と勉強会をしていた時のことだ。
「よかったら教えようか? 私、バイリンガルなの」
清楚系の美人が声を掛けてくれた。
俺と一臣の手には、英語の教科書があり、見兼ねて声を掛けてくれたのか、セックスのお誘いだったのか、それは定かではないが、俺は心の中でガッツポーズをした。
その瞬間、
「あ、結構です。ありがとうございます」
一臣は瞬殺した。
あっさり断られると思っていなかった彼女は、驚きと恥ずかしさと怒りを綯交ぜにした表情を一瞬覗かせた後、「そう」とだけ口にして、すぐにその場を離れていった。
「お前、なにセックスの邪魔してくれてんだよ」
小声で怒る俺に、一臣は「面倒臭い」とだけ言った。
「お前は面倒臭くても、俺はあのお姉さんと仲良くなりたかったんだぞ」
「それがどうした」
「俺の意見を聞いてから断れ」
「だったら、あっちのテーブルにお前だけ行ってこい」
「そういやそうだ。行ってくるわ」
立ち上がって、テーブルの上の教科書やノートをいそいそと片付ける俺の手首を、一臣は掴んだ。
「行くな」
「お前、行けっつったろ」
「やっぱり行くな」
「俺は行きたいんだ。綺麗なお姉さんが好きなんだ。行かせてくれ」
「行くな」
「頼むから行かせてくれ」
「頼むから行くな」
座ったまま俺を見上げ、一臣は珍しく懇願してきた。その目は、「拾ってください」と書かれた段ボール箱の中でおとなしく座っている子犬のそれと同じだった。
俺も人間だ。慈悲の念はある。なんだか子犬が不憫になり、席に座り直そうとした。一臣がゆっくりと手を離した。
途端、どうしても諦めきれず立ち上がる。すると、慌ててもう一度、俺の手を掴んできた。
いつも冷静沈着な一臣が、慌てているのがふつふつと笑えてくる。
俺は思わず笑ってしまった。
「お前さ、女子から告白されても片っ端から断ってるだろ。もったいねーな。人見知りなのは分かるけど、付き合ってみなきゃ、相手の良さなんて分かんねーだろ」
「人見知りだし面倒臭い」
「あんな綺麗なお姉さんでも面倒臭いのか?」
「そうだ。面倒臭い。それに、お前と話してる方が好きだ」
幼稚園の頃から、俺はわんころのように一臣にくっついていた。どちらかというと、俺の方が一臣に懐いていたように思う。
だが、俺ばかりではなく、一臣も俺のことを気に入ってくれていたんだという嬉しさで、俺は舞い上がってしまった。
「好きだ」の少し重みを含んだ言葉の発し方と、そこから感じた微かな違和感。
だが俺は、「好きだ」は「楽だ」という意味合いかと解釈してしまった。
「まあな、俺もだ」
笑って、一臣の向かいに座り直した俺に、さっきまで陰鬱としていた一臣の表情が、珍しく嘘みたいに嬉しそうな笑顔になった。
その慈愛に満ちた眼差しに、俺は思わず心の奥底で驚いた。
隠しているつもりかもしれないが隠しきれていない、本人の一臣ですらその事に気付いていないある感情を、感じる。
あの時は気のせいかと流したが……あれは、そのままそういう意味だったのかと納得した。今更ながらに思う。
あの時、何気ない会話で覗かせた一瞬の本音。あれが一臣の精一杯の告白だったんだ。
どうする? どうすればいい?
今までなら、悩み事はなんでも一臣に打ち明けていた。勉強も人間関係も恋愛も、一つ残らず全部だ。
出会った幼稚園の頃からずっとそうしてきた。
俺は今、ようやく実感した。
一臣がいない世界がこんなにも不安であることを。
親友を失うかもしれない底知れない恐怖を。
でも、どうすればいいのか分からない。
誰かに相談できるわけもなく、俺は一人で抱え込むしかなかった。