2、limの始まり
数学の授業が始まった。華奢な彼女が教壇に立つと、どの先生よりも黒板が大きく感じられた。
二回目の授業の時だった。高二の復習で、数列の漸化式が出てきた時、
「二年の時に習ったよね?」
と、俺たちの方を振り返って聞いてきた。
クラス全員の頭に、明らかに「?」マークが浮かんでいることを察した先生は、
「あれ? 忘れちゃった? これは特性方程式といって――」
と、分かりやすくきちんと説明してくれた。
途端、俺の記憶が鮮明に甦った。確かに、高二の時、数学担当の松本がこの解き方を教えていた。しかし、その時は意味が分からず、俺が、
「先生、なんで違う数字なのに同じアルファベットを置くんですか?」
と質問したら、
「あ~、これは~、魔法の方程式なんです」
と、訳の分からん教え方をしてきたヤツだ。
松本よ、なにが魔法の方程式だ。特性方程式っていう、ちゃんとした名前があるらしいぞ。
俺は心の中でツッコミを入れた。
彼女の授業は丁寧で分かりやすく、退屈しないよう、要所要所でプライベートな話題も盛り込んで教えてくれた。授業のやり方って、その人の性格がもろに見える。
俺はますます彼女に興味が湧いた。
授業が終わると、渡り廊下を歩く先生を俺は走って追いかけた。
「先生」
俺の声に素直に振り返られて、俺は一瞬ドキッとした。悟られないよう平常心を装ったが、内心はドキドキだった。
「俺のこと憶えてますか?」
彼女は首を僅かに傾けたものの、すぐに「あ」と口を開いて笑った。
「着任式の時はありがとう。えーっと……」
「遼介」
名前を覚えてほしいのですぐに教えると、彼女は微笑みながら首を小さく横に振った。
「名字は?」
「……楢崎です」
「楢崎くん、あの時はありがとう。ギリギリセーフだったわ」
満面の笑みを浮かべる先生に、俺は思わずツッコんだ。
「完全にアウトだろ」
「大丈夫、あれはセーフよ。あとで教頭先生に叱られたけどね」
「やっぱアウトじゃん」
その時、全開の窓から桜吹雪が舞い込んできた。
一気に桜色の空間に彩られた瞬間、周りにいた生徒たちから、思わず歓声が沸き上がった。
風がおさまって先生を見ると、彼女の頭のてっぺんには、桜の花びらが何枚も乗っていた。
その事に気付いていないのが無防備で、なんだか可愛い。
「先生、桜、めっちゃ付いてるよ」
花びらを払うために手を伸ばすと、先生は僅かにうつむいてじっとしてくれた。
思わず心臓が高鳴った。
俺に触れられるために動かないでくれている。先生の髪にそっと触れる。手が震えてしまいそうだ。優しくそっと花びらを払う。
「取れたよ」
すると、先生は、
「ありがとう、楢崎くんも付いてるわよ」
と、俺にだけ笑って、背伸びをしながら、俺の頭を優しく払ってくれた。
周りの音が一斉に消えた。二人だけの空間になったような気がした。
こんなの、惚れるなというほうが無理だろ。
でも、気持ちを打ち明けるのはやめておこう。
受験うんぬんもあるけど、断られて気まずい一年間を過ごすのは地獄だ。せめて卒業してからにしよう。
でも、それまでにとられない保証はどこにもない。一体どうすればいいんだ。
ここまで考えて、なんだこれと我に返った。こんな自分に戸惑う。初めて知る自分。
俺ってこんなにも恋愛に臆病な奴だっただろうか?
あれから、廊下で先生に会うと、俺は必ず声を掛けるようにした。さすがに顔と名前は憶えてくれただろうから、後は存在を植えつける作戦だ。
彼女の周りには、いつでも何人かの生徒が集まっていた。男子生徒だけではなく、同じくらいに女子生徒にも囲まれていた。彼女の人柄が分かるようだった。
他の生徒と同じように、一言二言、話すだけで終わっていたが、知りたいことはさりげなく聞いていった。
好きな色はオレンジ色。好きな食べ物は餡かけチャーハン。好きなお寿司のネタはとろサーモンと穴子。好きな果物はいちご。好きなお酒は梅酒。嫌いな食べ物は納豆だった。
会話をした時の先生の表情が、言葉が、俺の頭の中で何度もリフレインした。
こんなこと、今まで経験したことがない。自分の理性とは関係なく、勝手に感情が突っ走っていく。本能で先生を欲しがっている自分がいた。
職員室に行く用事があると、必ず彼女の場所をチェックした。大抵、次の授業の準備をしているか、昼休みや放課後は質問にきた生徒を教えていた。それが男子生徒だった場合、当然ながら、俺はこれ以上ないというほどモヤモヤした。
唯一の救いは、彼女が純粋に教師としての立場を全うしている姿だった。誰に対しても常に平等。恋愛の入る余地を微塵も感じさせない凛としたそれは、他の奴にはとられないで済むという安心感に繋がっていた。
時が経つにつれ、いつしか好意を持っていることを知ってほしくなってきた。
ただただ想っているだけというのは、抑え込んでいるせいか、想像以上に想いが濃密になっていく。それは甘くて楽しいけれど、一方通行なだけに、どうしても切なさが募っていった。
相手にバレないよう想いを抱え続けるというのは、想像以上にかなりしんどいものだった。
ある日のことだった。校庭で寝ていたら、誰かが俺の体を微かに揺すっていた。夢うつつで薄目を開けると、目の前に桜井先生が覗き込んでいた。
思わず「うわっ」と小さく叫ぶ。
「もうすぐ昼休みが終わるから起こしたんだけど……そんなに驚かせちゃった?」
戸惑いながらも、次の瞬間に微かに笑った笑顔に癒された。
好きってバレないようにしないといけない。でも、これだけは確認しておきたい。
「先生って彼氏いるの?」
「いないです」
「ラッキーッ」
思わず口を衝いて出てしまった。俺って隠し事がマジで苦手だ。さすがに好意はバレただろう。
すると先生は驚くこともなく、至って慣れた対応をした。
「楢崎くんは受験生でしょう? 今は恋愛よりも勉強に集中しましょうね」
おそらく、今までに幾度となく男に言われてきた台詞だったのだろう。
「は~い」
俺は先生にならって、思いっきり気のない返事をした。想いが軽くて薄っぺらいものであるかのように装った。笑おうとしたが、切なさが勝って上手く笑えなかった。
彼女はどの生徒にも平等に接する。もちろん例外はない。
誰かにとられる心配がないという安心感は、同時に俺のモノにもならないという失望感でもあった。