18、次の関係性が成り立つことを証明せよ。2
夏のインターハイ。
ベスト4で敗退し、引退した俺は、おかんに言われ続けていた塾の夏期講習に通う羽目になった。
弁当を持たされ、朝から晩まで勉強机に齧りつく毎日は、あっという間に過ぎていった。
先生とどっか行きたい、できたら海に行って先生の水着姿を見てみたいとか想像したところで、夏期講習がそれを許してくれない。
夏期合宿なるものもあり、勉強に追いたてられる毎日に、夏休みが一気に嫌いになった。
二学期が始まったと同時に、講堂でオリエンテーションがあった。高校に入ってから山ほどオリがあったが、今回の内容で焦りが出てきた。
引退してから受験モードに切り替えていたつもりだが、焦りが出たのは初めてだ。
去年の夏休みにオープンキャンパスや進学フェアで何校かチェックはしていた。
もう大学と学部を確定しておかなければならない。
理系の成績がいいので理系を選択しているが、政経と英語も好きだ。唯一、国語が苦手だが、カバーできなくもない。
行きたい大学は大体決めているが、では、将来の仕事はどうなのか。そこらへんは実はまだ曖昧だ。
とりあえず、俺に接客や外回りの営業担当は無理だ。スマイルも無理だし、ムカつく客にブチギレそうだ。
やっぱり理系の大学を出てIT企業に就こうか。ソフトウェアの設計なんか楽しそうだ。
ふと気付いた。卒業したら、毎日、先生に会えなくなる。
それはそれで少し惜しい気がした。
九月の半ばになった。
文化祭の準備で、俺たち男性陣は教室の壁一面に、一度シワにして伸ばしたアルミ箔を貼る作業をしていた。テーマは近未来のカフェらしい。
文化祭の当日になると、いつもは白い校舎が、今日は色とりどりの看板で埋め尽くされていた。
気持ちも自然と高揚する。爽やかな秋晴れの下で吹奏楽部のコンサートが運動場で始まり、学校全体が一気に文化祭の空気に変わっていった。
そんな中、俺は親父から失敬してきたビジネススーツに袖を通していた。
というのも、十時からの一時間、ウエイターの役に当たってしまったのだ。
しかも、十一時から宣伝活動もしなければならない。顔がいいからという理由だけで、俺と一臣とその他三人の計五人で、飲み物とケーキのセット券を売り捌く役に任命されてしまったのだ。
遊ぶ時間が減るから、ただただマジでムカついている。
俺たちの教室と同じ階の一番突き当たりが美術室になっており、そこが男子の着替えスペースとしてあてがわれていた。
数人が入れ代わり立ち代わり、学ランから変身して出ていく。ある者はボディコンを着て女装していき、ある者は着物を着て扇子を持って出ていき、またある者はうまい棒のめんたい味の被り物をして、仲間に手を引かれて出ていった。シュールな光景だ。
着替えが最後になった俺に、一臣は「まだか?」と声を掛けてきた。
「悪いけど、ネクタイ締めてくれないか?」
「できないのか?」
「やったことない」
「貸せ。そろそろ練習しとけよ」
制服が学ランなので、俺はまだネクタイの締め方をマスターしていなかった。
俺からネクタイを受け取って、一臣が慣れた手付きで締めていく。
顎を上げて大人しく待っていると、いきなりネクタイを引っ張られた。
「うわっ」
俺は間一髪で、一臣の顔面を両手で抑えた。もう少しでキスされていたところだ。
「あ、あぶね~~。なにすんだよっ」
「いや、チャンスだな、と」
「そんな恐ろしいことを淡々と言うなっ」
ネクタイを自分で整えながら、俺はプンスカ怒ってやった。両手をポケットに入れていたら、完全にキスされていたところだ。
「最初からするつもりじゃなかったんだぞ。お前が顎を上げてるのが、ちょうどキスできる角度だな、と」
「解説はいいっ。とにかく、もうキスは禁止だからなっ」
言った後、どっかで聞いた台詞だな、と思わなくもなかった。
「俺が止めてなかったら、する気だっただろ」
「ちゃんと直前で止めるつもりだったぞ」
「……本当に本当ですか?」
半泣きの顔をして見せた俺に、一臣は笑うのをこらえるために顔を背けた。一臣の昔からの癖だ。
「無理すんな。オレに関わらん方がいいぞ」
「…………もうちょい頑張ってみる」
「ハハッ」
珍しく一臣が声を出して笑った。
「光栄だな。めげない奴だな、お前は」
「……まあな」
「なかなか似合ってるぞ。スーツは男の戦闘服だからな。見た目で仕事ができるかどうか判断される。面接だとお前は合格だろ」
「一臣は大学と学部はもう決めたか?」
「まあな」
「どこだ?」
「とりあえず法学部を何校か……」
「お前、いつの間に文転してたんだ! 理系も成績いいだろ!」
「確かにそうなんだが、どうしてもやりたいことを捨てきれなくて……。そういうお前は?」
「……どっかの理工学部かな。就職でもIT企業に就くなら有利かなと」
「いいんじゃないか。お前の成績だったら、いい大学に行けるだろうし、そのまま大手に就職できるだろ。自分の得意な分野で働けて、給料も良かったら最高じゃないか」
「そう、だよな……」
静かに相槌を打った俺に、一臣が小さく笑った。
「納得してない時点で、もう答えは出てるじゃないか」
「…………」
「お前のことだ。後悔するぞ。迷ってるなら、面白そうな方を選べよ」
俺の脳天に衝撃が走った。
一瞬で、俺のやりたい仕事と目指す学部が決まった。
悩んでいた霧が一気に吹き飛んで、ただそれを実現するための闘志のようなものが静かに沸いてきた。
「お前ならできるだろ」
なんでもないことのように言って、一臣は俺の目を見て微かに笑った。俺を信頼しきっている目だ。
――こいつは本当に俺のことをよく分かっている。
「行くぞ」
一臣に促され、一緒に教室に向かった。
いつも通りに話し、いつも通りに笑い合った。キスされそうになったことなんて、まるでなかったかのようだ。
これは一体どういう関係なんだろう。親友とはまた違う関係なんだろうか。
自然なようで、どこか危うい均衡を保っているような気もする。この危うい均衡を保つことは不可能なんだろうか。
一臣を苦しめているのかもしれない。
俺は卑怯なのかもしれない。
これがどういう関係に位置するのか分からない。
分からないけど、もう少し、このままでいさせてくれ、と思う。