11、次の命題が真であるか偽であるか答えよ。
放課後の図書室が好きだ。ここだけ時間がゆっくりと穏やかに流れている。
借りていた推理小説を返却して、次は何を借りようかとうろついていたら、桜井先生がいて驚いた。
先生も同じようにうろついている。無防備すぎる後ろ姿に胸が踊った。
高い所の本が取れないのを代わりに取ってやる少女漫画のヒーローみたいな登場をしてみたかったが、先生は胸の辺りの位置から出した本をパラパラめくり始めた。現実は思い通りにはいかない。
仕方ないから、背後からそっと寄っていって、
「なに読んでんの?」
と両手をついて、俺と本棚の間に先生を閉じ込めてみた。
「ひゃっ」
微かに叫んで、先生の手から本が落ちた。
振り返って俺と間近で目が合って、もう一度「ひゃっ」と叫んでしゃがみこんだ。
「もうっ、ビックリさせないでよっ」
見上げてくる先生の真っ赤になって怒っている顔が愛おしい。
俺の想像通りにまんまと驚いてくれる先生に、俺はウシシ笑いをした。
「なんで図書室にいんの?」
手を差し伸べたら、先生はおずおずと手を乗せてくれた。
少し冷たい、小さな柔らかい手だった。しかも物凄く細い手首だ。ちょっと力を入れただけで簡単に壊れてしまいそうで心配になる。
優しく手を引いて立たせてあげると、先生は拾った本の表紙を見せてくれた。
「もっと分かりやすく説明する方法はないかなって調べてたの。二年生は次の授業からΣ、lim、∞なんかが始まるのよね。大抵、みんなここで振り落とされるから」
分厚い本の表紙には『超実数と無限大の数学』と仰々しくある。
俺よりこんなにも小さくて慌てん坊のくせに、改めて、この人は先生なんだと再確認した。
「いろいろ教え方を工夫するなんて、先生は偉いなぁ」
素直に感心する俺に、先生は嬉しそうに笑った。
「ありがと。ところで、新堂くんとケンカでもしたの?」
「なんで?」
反射的に返してしまった。
「だって、あんまり一緒にいるところを見かけなくなったから。前まで毎日、一緒にいたのに」
「……まあ、そうだな……」
「先に謝っちゃえば? 後々になると仲直りしづらくなるわよ。先生でよかったらついていってあげようか?」
先生がついてくる……。
余計にややこしくなるようなことを思い付くなよ、と俺は心の中でツッコミを入れた。
「遠慮しとく」
「遠慮しなくても、先生がうまくやってあげるから」
なんにも事情を知らんくせに、何を根拠にうまくやると言っているのか。
俺は心の中で再度ツッコミを入れた。
「いいってば」
「いいからいいから」
「しつこ」
い、を言おうとしたら、
「あ、ごめんなさい」
と、先生が慌てて謝った。
「私ダメね、またやっちゃった。どうも私、『先生でよかったら』が口癖みたい。……怒ってる?」
心配そうに様子を窺う先生に、俺は全く怒っていなかったが、
「んー……ちょーっとだけ怒ってる」
とか言ってみた。
口に片手を当てて、みるみる先生の眉が歪んでいく。困り顔も可愛い。
おもむろに、俺は自分の顔を指差して「遼介」と言ってみた。
すると先生は「なになに?」と不思議そうな顔をした。
「悪いと思ってるなら、俺、下の名前が遼介だから、遼介って呼んでほしい。そしたら許してあげるから」
「えっ」
「一回でいいから。簡単だろ?」
ちょっと考えた先生は、
「……本当に一回でいいのね? もう一回だけとかなしね」
と言うと、漫画みたいに咳払いをして、消え入るような小さな声で、「……遼介……」と言った。
「あのさ、本当は俺が怒ってないことに気付いてただろ?」
途端、先生は「く~~っ」と漫画みたいな悔しそうな声を出して顔を歪めた。
「なんで、俺の名前を呼んでくれたの?」
「そうやってからかうのやめなさいっ」
「声でかいよ」
口の前に人差し指を立ててみせると、彼女は慌てて自分の口を手で塞いだ。
その時、図書室の扉が開く音がして、女子の話し声が聞こえてきた。
俺は先生の二の腕を引っ張って、死角になっている一番奥まで連れていった。
窓からの光が届かない、薄暗いコーナーだ。分厚い生物学の本が並んでいる。ここの一角だけ、空気が止まっているようだった。
「からかったんじゃなくて、マジで不思議だったから聞いただけじゃん。なんで?」
ウキウキしながら質問したら、先生は、
「だって、あなたが簡単なことだって言うし、本当にちょっと怒ってるかもって思ったし……」
「でも、好きでもない奴が勝手に怒ってても放っておいたらよくね?」
「でも、仲直りしておきたかったし……」
「あのさ、俺のこと好きなんじゃないの?」
「な!……」
叫びそうになった先生の口を、俺は慌てて片手で塞いだ。
「静かにしろって」
分かった分かったと言いたげに、先生はこくこく可愛く頷いてから、俺の手を外した。
「仲直りは教師と生徒の関係を良好に保ちたいってことだけよ。特に深い理由はないの。とにかく、困らせるようなことはもうしないで」
「やだ、困らせたい」
はぁ~……と声になるような溜め息を吐いて、先生は脱力した。
「話が通じない……あなたといると寿命が縮む……」
「まあまあ。ところでさ、返事はまだ?」
途端に、彼女の肩がピクンと跳ねた。
「あ、あの、そのことなんだけど……」
明らかに明るい答えじゃないのを察して、俺は一瞬で予防線を張った。
「待った。俺のこと嫌い?」
先生はすぐに首を横に振った。
「さっき、からかったのも嫌だった? もし迷惑なら言って。俺、今すぐやめるから」
すると、先生は少しの間を取った後、また微かに首を横に振った。
俺の心臓が大きく跳ねた。
え、ちょっと待ってくれ。
もしかして、もしかしたら――
「……嫌じゃないのか?」
「もちろん困るんだけど……。でも、あんなに毎日あったものが急になくなるのは、ちょっと淋しいような変な気も……」
たどたどしく説明する先生に、俺の心臓が尋常じゃなく高鳴っていった。
正直なところ、先生にとって俺は迷惑な存在でしかないと思っていた。
甘えるのが好きで、しょっちゅう先生をからかっては困らせてばかりいる生徒の一人。
そんなもんだと思っていた。さっきも本気で迷惑がっていると思っていた。
僅かにうつむいている先生の表情がちゃんと見たい。先生の真意が見たい。
俺は高鳴る心臓を必死に押さえながら、先生の小さな顔を両手で挟んで優しく上向かせた。
先生の瞳が潤んでいる。見つめている俺が映るほど、涙が溢れそうになっている。緊張からか、先生の小さな唇が微かに震えている。
「ちょっ、ちょっと待って……」
彼女は体を僅かにのけ反らせた。
絶対に逃したくない。
思わず、俺は先生を本棚に押し付けた。
「待てない」
「あ、あの、気持ちは本当に嬉しいんだけど、私は教師だし、生徒のあなたを好きになってはいけないと思うの」
「好きにならないようにブレーキかけてんの?」
「そうよ」
「好きにならないようにブレーキかけてる時点で、それは好きだろ」
「…………」
「違うか?」
「……でも、実際に生徒だから……」
「ごちゃごちゃうるさい。生徒がどうとか関係なしで考えろっつったろ」
「だ、だって、これが好きかどうかまだ分からないもの」
「なら、なんで、俺の名前を呼んでくれたんだ?」
「それはだって、あなたに嫌われたくなくて……」
俺の心臓が爆発したかと思った。
ヤバイ。どうしよう。嬉しすぎて死にそうだ。
「もう無理だ。待てない」
「ダメ、ちょっと待ってっ」
「先生が俺の名前を呼んでくれたらキスしたい。先生が俺のことを嫌いなら呼ばなくていい。二度と先生に関わらない。この手を離す。約束する」
自分で口にした途端、気付いてしまった。
一臣、その通りだ。恋愛って、100か0しかないんだな。
すると、彼女の小さな唇が僅かに開いた。
頼むから、俺の名前を呼んでくれ。
祈るような気持ちで先生の目を食い入るように見つめる。
すると、さっきよりも消え入るような小さな声で、彼女の唇がカタチを刻んだ。
「……遼介……」
吐息混じりのその声に、俺の頭は真っ白になった。脳内がスパークした。
ヤバイ。マジか。こんなん夢だろ。
無我無中で、噛みつくように先生にキスをした。