10、Excellent!
一臣と会話をしない日々がまた始まった。淋しい時間だった。
同じ空間にいるが、今までのように、すぐそばにいることもなくなった。
ただ、ニアミスは二度あった。朝練をしなかった朝の下駄箱だ。
一臣が話さないから俺も何も話さない。それだけのことで、俺の日常は一変した。
実際に、日常は普通に流れていた。何も変わっていない。ただ、一臣がいなくなった。もうそれだけで充分だ。俺は苦しかった。
俺にも一臣にも、お互いに友達はいる。クラスのグループも、バスケ部の仲間も。一人でいることはなく、お互いの友達同士で笑いあっている。
だが、違う。
俺の世界は一臣がほとんどを占めていた。
学校にいる時の楽しさが、自分でも驚くほど激減していた。俺にとって一臣は、居心地のよさを提供してくれる、かけがえのない存在だった。
唯一、桜井先生が教えてくれる数学の時間が、俺にとっての癒しの時間だった。
彼女がチョークを持って文字を書くとき、いつも黒板が大きく感じられた。
相変わらず、どの先生よりも、彼女は華奢で小さい。最初の書き出しは上の方だから、いつもつま先立ちになっている。
授業中に、不定期で十分間の小テストをすることがある。ストップウォッチを持って「始め!」の彼女の号令で、クラス全員がざっと一斉にうつむいて解答欄を埋めていく。
そんな中、俺だけは毎回必ず、顔をあげたまま口パクで『ヤッホー』と言って無意味に手を振ったりなんかする。
もちろん、すぐに気づいた先生は、『やりなさいっ』と口パクで促した後、困った顔をした。
ある時は、漫画のように、わざと頬をいっぱいまで膨らませて腕組みをしていた。
俺は左右を見渡した後、人差し指を自分に向けて、『えっ? 俺に怒ってんの?』と自分に決まっているのにわざと驚いて見せたら、先生は教壇にうつむいたまま肩を震わせて笑いをこらえていた。
小テストの端に、「ウケた?」と書いたら、隣に赤ペンで「やめて!」と書かれて返ってきた。
またある時は、頬を膨らませて拳を見せるポーズをしていた。一番後ろの席だけど、『後ろに誰かいるのか?』と架空の後ろの奴を不思議そうに振り返る演技をしたら、やっぱり教壇にうつむいたまま肩を震わせて笑いをこらえていた。
「今日もウケた?」と書いたら、隣に赤ペンで「次から-10にする!」と書かれて返ってきたので、しぶしぶやめることにした。
そのかわり、小テストの間、先生が俺の席に近づいてきた時は、そばに来てほしいので、わざと消しゴムを落としたりした。
もちろん、先生は拾いにきてくれるから、俺は「あ、すいません、ありがとうございます」と、わざと淡々と言う。けど、受け取る時に、にんまりすると、先生はやれやれという顔をした。
ある日の授業中のことだ。
ノートを取りながら欠伸をして、また黒板に視線を向けると、ちょうど先生が口を手で覆ってさりげなく欠伸を我慢していた。
あまりにもタイミングが合いすぎないか? 俺の欠伸がうつったのか? ひょっとしてひょっとしたら、俺のことを見ていたんじゃないだろうか。
無駄なことだと分かっていても、どうしても僅かな期待にすがり付いてしまう。
頼むから、俺のことを好きになってくれ。
そんなことを、いつも先生を見つめながら願ってしまう。
一度、俺のすぐそばまで廻ってきた時の事だ。
何かに躓いて転びそうになった先生を、俺は座った状態のまま腕だけ伸ばして、辛うじて抱き止めたことがあった。
いつもは、赤ペンで「100」の下に「Excellent!」の文字だけだが、その日の小テストは、「Excellent!」の更に下に、「ありがとう」の文字があった。