1、出会い
俺がその人を初めて見たのは、高三の春だった。
その日は着任式で、全校生徒が体育館へ大移動を始めていた。
寝坊した俺は、生徒の流れに逆らって、ようやく辿り着いた教室へ荷物を放り投げると、誰もいなくなった廊下を猛然とダッシュしていた。
すると、校舎を繋ぐ二階の渡り廊下で、見慣れない人がうろうろしていた。明らかに迷子になっている。
肩までのボブカット、薄いグレーのジャケットに、膝下のタイトスカート、来客用のスリッパを履いている。
渡り廊下の窓から、その人のバックに、満開の桜が咲き誇っているのが見えた。
誰だあれ? 見た感じ若い?
通り道なので、ダッシュのまま近付いていく。
「すいません、もしかして迷ってますか?」
俺の声に、その人はそっと振り返った。
ナチュラルな薄い眉に、大きすぎないほんの少しの垂れ目、通った鼻筋、唇が艶めいている。
透き通るような色素の薄い肌はシミ一つなく、あまりに整ってるその顔立ちに、俺は思わず息を飲んだ。本当に生きているのかと不思議なほどだった。
天使が服を着て迷子になっている。
俺は死んだのか?と一瞬、思った。
凄い。なにからなにまで、俺の好みにドストライクだ。世の中、捨てたもんじゃないな。
その人は、口に手を当てて、眉間にしわを寄せ、今にも泣き出しそうな顔でこくこく頷いた。
「体育館どこ……?」
「ひょっとして先生……ですか?」
同じく、彼女はこくこく頷いた。
「着任式で挨拶しなきゃいけないの……」
「ええっ? こっちだよっ、着任式もう始まってるぞっ」
俺はその人の手を取った。
全速力はできないから、彼女を気遣いながら手を引いて走った。階段を降りて、校舎を出て、体育館をつなぐ渡り廊下を二人で走る。そして、体育館の扉を開けた。
整然と立ち並んでいる、ありとあらゆる者たちと目が合った。
ちょうど挨拶をしている真っ最中だったようで、舞台上の縁台のマイク前で、校長先生が立っていた。
「着任式早々に遅刻とは、たるんどるぞ!」
舞台の階段下のマイクで、指導教諭の吉村の一喝が響いた。
ヤバイ。
疚しい気持ちを捨て去るように、俺は慌ててその人の手を離し、自分の居場所を探しに、生徒の群れに紛れ込んでいった。
すぐにクラスメートの一臣を見付け、俺は奴の後ろに立って心底ホッとした。
「はぁ~助かった~。ギリギリセーフだった」
「完全にアウトだろ」
幼稚園からの幼馴染みで親友の新堂一臣は、日々を冷静沈着に過ごしている。こいつが動じたところをまず見たことがない。俺の小ボケに、毎回こうして付き合ってくれる。
実は、一臣と交わす会話を俺はかなり気に入っている。俺の小ボケに淡々と入れてくれるツッコミが、俺にはツボなのだ。
「あの先生とはどういう関係だ?」
「無関係という関係。迷子になってたから連れてきた」
「手を引く必要はないだろう」
「ある。だって美人だから。俺の好みにドストライクだ」
「確かに美人だ」
「あ、ダメだぞ。俺が先に目を付けたんだからな」
「そんなこと関係ないだろう」
「関係ある。恋愛は早い者勝ちだ」
「その理論だと、美人だからカレシくらいいるだろう」
「カレシがいるからって知りません」
「なんて奴だ。結婚してるかもしれんぞ」
「指環はしてなかったから大丈夫だ」
「なんて奴だ。チェックしていたのか」
「あとはオトすだけだ」
ウシシ笑いをしている俺に、一臣が珍しい物を見る目で見てきた。
「……初めてじゃないか? お前からいくなんて」
「そういや、そうだな」
「やめとけ。相手は先生だぞ」
「無理。もう好きになっちゃった。大体、先生だからってやめる理由にはならないし」
「お前は受験生だろ。恋愛してる場合か」
「それはそうだけど~……なんかやめるの無理みたいだわ」
「……お前にもそういう感情があったんだな」
「バカにすんな。俺も恋愛してきたわ」
「してきたか? 知ってる限りじゃ、告られて、付き合って、お前が飽きてふるってパターンだ」
「人聞きの悪い。飽きてフッてるんじゃない。俺って束縛が苦手なんだよ。だんだん凄い依存してこられて怖くなるんだ」
「それは本当に好きだったのか?」
「ちゃんと好きだったよ。それにフッてばかりじゃない。英語教室のアンジー先生にはフラれたぞ」
「あれはフラれたって言うのか?」
「地震の一週間後に急に母国に還っちゃったら、そらフラれたってことになるだろ。傷心の俺はすぐに英語教室をやめてやったぞ」
「確認だが、英語を習いにいってたんだよな?」
「冷静に考えればそうだけど、中二の俺には英語とアンジー先生のセックスは二個一だったんだよ。付き合ってたのに、急に連絡もなしにいなくなったらショックだろ」
「知るか。世の中に、こんなにも可哀想だと思えない話があるんだな」
俺はプンスカ怒ってやった。
一臣としょうもない話をしていると、さっきの彼女の声がマイク越しに体育館に広がった。
見ると、舞台上で挨拶を始めていた。
「遅れてしまってすいません。数学担当の桜井美和子です。私の授業で、少しでも数学を好きになっていただけたら嬉しいです。よろしくお願いします」
ぺこりとお辞儀した桜井先生に、あちこちから指笛が飛ぶ。俺と同じ考えの奴らが数人いるようだ。
「静かにしろっ!」
先ほどと同様、吉村の一喝がマイク越しに響いた。音割れして、キーンと体育館中に鋭い耳障りな音が響き渡った。
挨拶が終わった桜井先生は、舞台上のパイプ椅子に座ると、本当に胸に手を当てて安堵していた。順番に他の先生たちも挨拶をしていたが、俺は一切興味を持てなかった。
どうしても、桜井先生から視線を離すことができなかった。