09.旦那様が妖艶すぎます
ハネスは、格式あるフェデラー公爵家の当主として生まれた。幼名のアドニスは、母が付けてくれた名だ。
フェデラー公爵家は、創始の際に土地神の力を借りる代わりに代償を支払った。当主となる者は、異性の前で幼児化してしまうという……。ハネスも爵位を継ぐ前から、その呪いを背負う覚悟はしていた。
ハネスには、スフィミアの前に五人の婚約者がいた。皆、公爵家という地位に惹かれて公爵邸にやって来たものの、すぐに逃げてしまった。ハネスにとっても愛せるような人柄の女性はその中にはいなかった。
アドニスは、五人の婚約者の誰にも心を開かなかった。貴族の娘たちは気位が高く、アドニスに対して冷たく当たったからだ。
「ねぇ、もう一週間も経ったわ。いい加減、わたくしに慣れてくれない? 呪いをさっさと克服してくれないと困るのだけれど」
「呪い? なんのことかよく分からないよ。……ご、ごめんなさい……」
「ああもう、そうやってすぐ泣く。子どもって面倒ね」
「あなた、本当にハネス様なの? 私のこと騙してるんでしょ。ハネス様に会わせて!」
「ハネス……? ……僕は、アドニスだよ」
彼女たちは、最初は良い顔をしていても、アドニスがなかなか懐かなかったり、呪いを克服する見通しが見えなかったりすると、だんだんと横柄な態度に変わっていった。そうして最後には屋敷を去っていく。
でも、スフィミアは違った。五人目の婚約者との関係を解消した直後に王城で出会った彼女。溺れているところを水際まで運んでくれた彼女の手は優しかった。そのときに直感で『この人だ』と思ったのだった。
◇◇◇
「俺は本当に、この呪いを克服することができるのだろうか」
いつかのときに、リルバーにこんな弱音を漏らしたことがあった。呪いのせいで外に出かけることもままならず、公務にも長らく行けていない。そのせいで、社交界では引きこもりの好色家などという不名誉な噂が広がる始末。精神的に参っていて、ついこんなことを言ってしまったのだ。
リルバーは片眼鏡を指で持ち上げながら、淡々と言った。
「歴代の当主の方たちは、この呪いを克服し、ご夫婦で領民のために貢献されたそうです。これは、ただの執事の戯言ですが――」
前置きのあとに続ける。
「土地神様の呪いではなく、祝福だと私は思うのです。土地神様は生前、女運がなかったという伝承があります。公爵領を治める領主が伴侶選びに失敗しないように……そんな土地神様の愛があるのではないでしょうか」
「ありがた迷惑な図らいだな。こんな呪いがなくても失敗しない」
「それはどうでしょうか。先代も、先々代も、その前もその前も……。爵位を継承する前、ろくでもない女性ばかりに惹かれて悩まれたそうですよ。それに、ハネス様も……」
「それ以上は言うな。……分かってる」
思い当たる節があって、顔をしかめる。フェデラー公爵家の男たちに、女難に逢う傾向があるのは否めない。
「あなた様は容姿も身分も能力も非の打ち所がありません。今まで女性に困ることもなかったでしょう。ですが、こんな呪いがあってもあなたと向き合ってくださる女性がいるなら、それこそ逃してはいけない女性なのでは」
「……そうだな」
ハネスは執務机に頬杖を着きながら、リルバーの言葉に妙に納得させられて、そっと目を伏せた。
◇◇◇
湖に落ちたあと、丸一日安静にして過ごした。医者に診てもらったが、問題なしという診断だった。
そして次の日。スフィミアは初めて食堂でハネスと朝食を摂ることに。
食堂に着くと、すでにハネスが席に着いていた。
カーキベージュの髪に、長いまつ毛が伸びた琥珀色の瞳。シャープな輪郭。儚げな雰囲気にアドニスの面影を感じるが、アドニスにはない妖艶さがハネスにはある。女性的な顔立ちの美しい男性だ。
「おはようございます。ハネス様」
「おはよう」
ぺこりとお辞儀をすれば、彼は優しく目を細めた。
(あ、やっぱり笑ったお顔はアドニス様そっくり……って、そうよね。ご本人なんだもの)
アドニスとハネスが同一の人物ということに、まだ違和感がある。自分でツッコミを入れつつ、ハネスの近くの椅子に腰を下ろした。朝食は、野菜がたっぷり入ったスープにサラダ、白パンだった。ご飯を食べながら幸せを噛み締める。
(美味しい……幸せ〜〜)
頬に手を当ててうっとりした顔を浮かべれば、それを見ていたハネスがくすと笑う。
「あなたは美味しそうに食べるな」
「私、食べるのが大好きなんです……! 食べるだけで幸せです」
「こちらまで幸せな気分になるよ。食欲はあるようだが、体調はどうだ?」
「だいじょうぶえす……んぐ」
「それは良かった。あと、飲み込んでから話そうか」
コップの水を口内に流し入れる。空のコップをテーブルに置き、ハネスの方を見る。
(ハネス様のご飯、全然減っていないわ)
スフィミアは細身な体型の割にかなりの大食らいだが、ハネスはあまり食べないタイプなのだろうか。
「ハネス様は少食ですか?」
「いや……食欲がないだけだ。緊張してしまって」
「緊張? このあと何か用事でも?」
何に緊張しているのだろうかと、こてんと首を傾げるスフィミア。するとハネスはいたずらに口の端を持ち上げる。
「好きな人が目の前にいるから」
「まぁ……」
「アドニスを通してあなたを見るうちに、惹かれていったんだ。……それから、呪いを克服するために課せられていた条件について話そうと思う」
スフィミアはぴんと姿勢を伸ばして、聞く準備をした。そして、ハネスから条件の詳細を伝えられた。彼がスフィミアに一目惚れしていたという王城での過去のことも。
「スフィミアは、俺のことが好きか?」
「そ、れは……」
そう問われて、言い淀んでしまう。大人の姿のハネスとは、ほとんど初対面。大好きではあるが、一目惚れしてくれた彼の気持ちとは違う。頷くことができずにいると、彼が言った。
「大丈夫。素直に言ってごらん」
「は、はい。ハネス様のことは好きです。でも……男性として好きかと言われると……まだよく分かりません。ごめんなさい」
「ああ。分かっている」
ハネスはこちらをじっと見つめてきた。
「これから、俺のことを夫として好きになってもらえるように頑張るさ。だから、懲りずにここにいてくれるか?」
「……は、はひ」
アドニスとは違う、大人の色気を含んだ眼差しに射抜かれ、どきんと心臓が跳ねる。頬を赤くして俯くスフィミアを見て、ハネスはどこか楽しそうにしている。
「あ、あの……見すぎでは」
「スフィミアがあんまり可愛らしくて。こうしてずっと眺めていたいくらいだ」
「!?」
さっきまで緊張して食欲がないと言っていたのが嘘みたいだ。いつの間にか形勢逆転し、手のひらで転がされているような気分になる。
(私の旦那様。よ、妖艶すぎでは?)
どんなときも食欲はなくならないのに、その日は初めて恥ずかしさで食べ物が喉を通らなかった。
それから、スフィミアがハネスの溺愛に絆されるまでそう時間はかからなかった。