08.はじめまして、旦那様
自分を助けようとしたばかりに、スフィミアが溺れてしまった。暗い湖の底に沈んでいく彼女を目の当たりにしたとき、どくんと大きく心臓が脈打った。
(このままじゃ、僕のせいでスフィミアが――)
――死んでしまう。その恐怖で心臓がぎゅっと締め付けられ、全身の血の気が引いていく。大好きな人を失いたくない一心で、自分が苦しいのも忘れて手を伸ばすが届かない。……届いたところで、アドニスでは彼女を水上まで連れていくことはできないだろう。
(スフィミア、スフィミア……!)
必死に腕を伸ばしたその直後。身体が大人の姿に戻った。身体が多少楽になったのを感じつつ、無我夢中でスフィミアの細い腕を掴んで引き寄せ、横抱きにしたまま湖畔まで泳いだ。
岸に上がったときには、スフィミアは気を失っていた。息もしていない。まるで氷のように身体が冷たくて、元々白い肌がさらに蒼白になっていて。
「スフィミア、しっかりしろ! スフィミア……!」
何度も呼びかけるが返事がない。水際に脱ぎ捨ててあった彼女のアウターで身体を包んで暖を取り、寝かせる。気道を確保し、唇を重ねて人工呼吸を行った。胸骨圧迫と人工呼吸を繰り返すと、しばらくしたあと彼女が水を吐き出した。
「かはっ……げほっげほ」
顔を横に向け、手で支えながら口内の水を流し出す。すると、呼吸が回復して意識を取り戻した。
「……旦那、様……」
瞼をうっすらと持ち上げた彼女が、こちらを見上げる。溺れて死にかけていたにも関わらず、ハネスの腕の中でスフィミアはあっけらかんと笑った。
「ようやくお会いできて、とっても嬉しいです」
無邪気にそう言って抱きついてくるスフィミア。
「全く……あなたって人は……」
にこにこと笑いながら見つめてくる彼女。能天気ぶりに呆れつつも、ハネスも満更でもない。濡れた髪が張り付いた頬を撫で、髪を避けてやると、彼女は柔らかい頬を手のひらに擦り付けてきた。
「熱が出た日……こうして私を撫でてくださいましたよね」
「……気づいていたのか」
「はい。大きくて温かくて……優しい手だと思いました」
スフィミアが頬を緩めるのを見て、胸がきゅうと甘く締め付けられる。彼女の意識が戻ったことへの安堵と、目の前で笑う好きな人への愛しさでいっぱいになる。
けれど何より、自分のせいで彼女を危険に晒してしまったことが申し訳なかった。
「……すまない。俺のせいで、あなたを危険な目に遭わせてしまった」
眉尻を下げて謝罪を口にすれば、スフィミアは首を横に振った。
「むしろ私がもっとしっかり見ておくべきだったんです。どうか謝らないでください。それに……」
彼女は無邪気に笑ってこう付け加えた。
「溺れている私を助けてくださった旦那様がすごく格好よかったです! こんな経験、滅多にできませんね」
「…………」
溺れているとき、さぞ怖い思いをしただろうに、彼女は前向きだった。いつも彼女はそうだ。子どもの相手ばかりで年頃の娘らしい楽しみも味わえていないのに、いつも笑っていて。
そういうところが、すごく好きだ。でも彼女が辛いときは彼女が寄りかかれるような存在でありたい。これからはきっと。
物思いに耽っていたら、彼女がこっちを見てくすくすと笑っていることに気づいた。
「何がおかしい?」
彼女はハネスの頭に手を伸ばして、髪に巻きついている長い植物を取った。
「水草が髪に絡まっているの、ずっと気になっていました。あと、肩にカエルさんが乗っていますよ」
「……!」
指摘されて肩に視線を落とすと、大きなカエルがゲコっと鳴いた。ハネスはスフィミアと顔を見合せて笑った。彼女はカエルの身体を摘み上げて、「よく肥えていて美味しそう」だと呟いた。彼女の食欲センサーは、食べられそうなものであれば見境ない。カエルも本能的に命の危機を感じたのか、摘まれたままじたばたと暴れている。
「さ、自然へお帰り。私の気が変わらないうちに」
「ゲロッ!?」
やっぱりちょっと食べるつもりだったようだ。スフィミアはカエルを湖にそっと逃がしてやり、小首を傾げて言った。
「呪いは……克服できた、ということでしょうか」
「分からない。だが、あなたの前でこうして本来の姿を見せられているということは、大きな進歩だ。俺が元の姿に戻る前……何を考えていたんだ?」
「…………!」
彼女は少しだけ照れたように答えた。
「私……アドニス様のことだけではなく、旦那様のことも……大好きなんだなって、考えていました。会えないままお別れするのは……嫌だと」
「そうか」
あの瞬間、彼女がハネスへの想いを自覚してくれたことで呪いを克服するための条件が満たされたのだと理解した。にこりと微笑みかけると、彼女はこちらをじっと観察する。
「旦那様は、笑うとアドニス様にそっくりですね」
「アドニスは昔の俺だからな。それから――ハネスと。名前で呼んでくれないか? 嫌ならいい」
スフィミアは少しだけ意外そうに目を見開いてからこくんと頷き、湖畔に咲くスイセンの花のような笑顔を浮かべた。
「もちろんです。――ハネス様」