07.凍りつくような湖の中で
その日は、アドニスがどうしても散歩に行きたいとせがんできた。家遊びばかりを好み、家の外に出たがらない子なので、珍しいこともあるのだと思いつつ承諾する。
「風邪を引くと大変ですから、暖かくしていきましょうね」
「うん」
エントランスでアドニスにアウターを着せながら微笑みかける。マフラーを巻いてやると、彼は眉を寄せながら身じろいだ。
「チクチクしますか?」
「う、うん。痒くてちょっと苦手かも」
スフィミアは自分が使っている高級な獣毛素材のマフラーを外して、アドニスのものと交換した。スフィミアの肌も敏感なので、一般的な繊維より細く、しなやかや肌触りのものを使っている。
「これならどうですか? 痒くないでしょう?」
「うん。ふわふわしてる」
マフラーに頬を擦り寄せて、滑らかな触り心地を堪能するアドニス。どうやら気に入ってくれたみたいだ。
「ふふ、私のお気に入りなんです。よかったらアドニス様にあげますよ」
「いいの……?」
「はい!」
「ありがとう、スフィミア」
彼はマフラーを撫でながら、「スフィミアの匂いがする」と頬を緩めた。
玄関を出ると、冷たい風が肌に触れた。向寒のみぎり。寒さが身体の芯まで染みていく。
アドニスは白い息を吐きながらスフィミアの手を引き、どこかへ連れて行こうとしている。公爵邸はかなり敷地が広く、隅々まで庭師の手入れが行き届いていて、飽きさせない工夫が凝らしてある。何か面白いものでも見つけたのだろうか。
アドニスの小さな手に引かれながら、おもむろに屋敷の方を振り返った。ちょうど、執務室の窓に目が留まる。
(本来の旦那様にお会いできないまま、とうとう冬になってしまったわね。お手紙だけだと物足りなさを感じるようになった……)
公爵邸に嫁いで来たのが夏の終わりだったので、あっという間にひとつの季節を通り過ぎてしまった。最初のころは、ハネスに会えなくとも平気だったのに、だんだんと切ない気持ちを抱くようになった。
「スフィミア、どうかした?」
つい立ち止まって思いに耽っていたら、アドニスが心配そうに顔色を伺ってきた。アドニスはハネスの幼少の姿だ。たまにハネスの面影を探してしまうけれど、ハネスとは全く別の存在だと考えている。
(旦那様の手は、きっと私よりも大きいのでしょう)
アドニスの小さな手を握りながらそんなことを思う。
「なんでもないです。さ、行きましょうか」
「うん」
二人は歩みを再開した。しばらく歩いて、連れられたのは湖だった。湖の水面はさざ波を打ち、青々とした空を映している。雪が降るくらい寒くなったら水面も凍るようになるだろう。
「あそこを見て」
彼が指差した方向を目で追うと、湖のほとりにスイセンが。ラッパの形に似た花が凛と咲いている。
「わ……綺麗。あれを私に見せようと?」
アドニスは照れくさそうにこくんと頷いた。
(か、可愛い〜〜!)
なんだこの可愛い生き物は。無敵だ。生態系の頂点に立てる気がする。スフィミアが内心で悶えていると、彼は琥珀色の瞳でこちらを見つめて言った。
「高潔で凛としているところが、スフィミアに似ていると思ったんだ。スフィミアはその……すごく可愛くて綺麗だから」
「ギャフッ」
「ぎゃふ……?」
ずきゅんと胸を撃ち抜かれる感覚に、スフィミアは胸を押さえて顔をしかめた。
「アドニス様はお上手ですね」
「お、おべっかとかじゃないよ!」
「ふふ、どうもありがとう」
「本当なのに……」
全然真に受けていないスフィミアを見て、アドニスは不服そうに口を尖らせた。
スフィミアよりアドニスの方がずっと可愛いと思う。
風に揺られるスイセンを眺めていたら、アドニスのマフラーが風に飛ばされていった。
「スフィミアがくれたマフラーが……!」
慌ててその後ろを追いかけていくアドニス。湖の水際は傾斜になっていて、非常に滑りやすい。――待って、と手を伸ばすが時はすでに遅く。湖に舞っていくマフラーを掴み損ねて体勢を崩したアドニスが、ばしゃんと水の中に落ちた。
「アドニス様……!」
水面に顔を出し、ばたばたと暴れているアドニス。公爵邸の庭園の湖は深い。大人でも足が全然着かないほど。どうしてもっとちゃんと見ていなかったのだろう。一瞬の後悔のあとにアウターや防寒具を脱ぎ捨てて、薄いシャツのまま湖に入った。
(冷たい……。こんなに水温が低いと、アドニス様が凍えてしまうわ)
身体中の細胞が凍ってしまいそうなほど水温が低い。深い水の中を泳ぎ、アドニスを後ろから抱き包んだ。水をいっぱい飲んで動揺している彼は、スフィミアの腕の中で暴れている。なんとか水上まで連れて行こうとした刹那。右足に鋭い痛みが走る。
(どうしよう……っ。足、つって……)
その拍子に思い切り水を飲んでしまい、一気に苦しくなる。足の痛みのせいで上手く泳ぐことができず、ついにはアドニスのことを手放してしまった。
意識が朦朧としてきて、どんどん沈んでいく。目線の先にいるアドニスを見ながら、ハネスの姿を思い浮かべた。このままでは、幼児化したままハネスまで死なせてしまう。――まだ、本当の姿の彼に会えていないのに。そんな考えが頭をよぎる。
(私、アドニス様のことも、ハネス様のことも大好きなんだ……)
まだ会えていないけれど、ハネスのことが大好きだ。アドニスを通して、いつもハネスのことを想っていたのだと自覚する。
呪いを克服するために協力するどころか、まだなんの力にもなれていない。親切にしてもらうばかりで、ハネスになんの恩返しもできていないのに。このままお別れなんて嫌だ。自分のせいで死なせてしまうなんて嫌だ。
(嫌、旦那様……っ、お願い、元の姿に戻って……)
アドニスに手を伸ばしたそのとき。大きな腕に引き寄せられ、横抱きにされる。そのままどんどん湖面に上がっていく。
腕に触れる節のある手。よく覚えている。風邪を引いて寝込んだ日に頬を撫でてくれたあの手だ。薄く目を開き、自分を抱えて泳ぐその人を見た。長いまつ毛が縁取る琥珀色の瞳は、大人になってもアドニスと同じだ。
(このお方が……私の旦那様……)
スフィミアはそのまま、意識を手放した。