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06.可愛いわがままはつい聞いてしまいます

 

 目が覚めると、熱が下がって身体がだいぶ楽になっていた。部屋は真っ暗で、窓の外に月が光っている。起き上がってぐっと伸びをした。


(よく寝た……)


 身体が楽になったから、お腹が空いている。ぎゅるぎゅると音を立てる腹部を摩り、寝台から立ち上がる。


「にんじん……じゃがいも……玉ねぎ……」


 深夜なので、使用人たちはもう眠っているだろう。厨房に行って、適当に食べ物を探そうと思い部屋を出る。


「ニシン……サーモン、タラ……タイ……イワシ……」


 ぶつぶつと呟き、よだれを垂らしながら廊下を徘徊する姿は、全然淑女らしくない。厨房に向かって歩いている途中、ふと昼間のことが脳裏によぎり、ぴたっと歩みを止める。


『好きだよ。――スフィミア』


 あの声は誰だったのだろうか。夢でも見ていたのかもれない。でも、夢にしてはやけにはっきりと耳に焼き付いている。低くて爽やかな声だった。それに――。


(頬を、撫でられたような……)


 自分の右頬に手を伸ばす。確かにあのとき、朦朧とする意識の中で節ばった手が肌に触れたような気がした。


「旦那、様……?」


 もしかして、伏せっているスフィミアを心配して来てくれたのではないか。そんな推測が頭をよぎる。スフィミアは、優しく肌を撫でてくれた感触をなんとか思い出そうとした。


 すると、廊下の先に人影が見えた。背が高い男性の影が壁に映っている。直後、淡い光が四散して、その中からアドニスが現れた。


「スフィミア……」


 スフィミアの姿を捉えた彼が、こっちに走ってくる。彼はスフィミアの服の裾をぎゅっと握り、顔をお腹に擦り付けてくる。


「アドニス様、どうかなさいました?」


 彼がこんな風に甘えてくるのは珍しい。すると、ぐるぐる……ぎゅる……とアドニスが擦り付けるお腹が鳴った。アドニスはあまりに元気な音にびっくりして肩を跳ねさせ、目を丸めた。そんなオーバーなリアクションをされるとちょっぴり恥ずかしい。


「お腹、鳴ってる」

「お、お構いなく」


 つい数秒前まで食べ物のことを考えよだれを垂らしていたのを思い出し、袖で拭った。アドニスはこちらを見上げながら言う。


「夢を……見た」

「まぁ……怖い夢ですか?」

「ううん。すごくいい夢……だった気がする」


 珍しく甘えてくるものだから、悪夢でも見たのかと思った。でもその夢は、ハネスが見た夢なのでは。先程の人影は成人男性のものだったから、幼児化したのはスフィミアが接近したついさっきのことだろう。

 ハネスの記憶を、たまたま共有しているというパターンもあるようだ。


「お部屋に戻って眠りましょう。きっとまた、素敵な夢の続きが見られますよ」

「嫌だ」

「まぁ。私は風邪を引いているんです。移ってしまいますよ」

「移ってもいい」


 いつもは聞き分けがいいアドニスが、頑なに首を横に振った。一緒にいてあげたい気持ちは山々だが、もう夜も遅いし、風邪を移したくない。それにお腹がめちゃくちゃ空いている。


(困ったわ。私が近くにいる限り、アドニス様は子どもの姿のままだし……)


 彼から顔を逸らして、口に手を当てながらこほこほと咳き込む。スフィミアが悩んでいると、彼は潤んだ瞳でこちらを見上げながら懇願した。


「お願い。今は少しでいいから……傍にいて?」

「〜〜〜〜!?」


(か、可愛すぎる……!)


 無理。可愛すぎる。世の中にこんなにも尊い生き物がいるのかと驚きが隠せない。これはもう完敗だ。葛藤の末にスフィミアはぐっと喉を鳴らし、頷いた。


「もう……少しだけですよ」




 ◇◇◇




 スフィミアの部屋は、なんだか甘くていい匂いがした。彼女に促されてソファに腰掛けると、彼女が毛布を持って来てくれて、アドニスの身体にかけてくれた。彼女は風邪が移るのを心配して、少し離れたところに座った。


「悩みが……あるんだけど。相談に乗ってくれる?」


 切々と打ち明けると、彼女はいつものようにおっとりと微笑んだ。


「もちろん。夕食のセロリが歯に挟まってるとかですか?」

「それはスフィミアの悩みなんじゃ……」


 どんなしょうもない悩みだと内心で突っ込む。カップを手に取り、優雅に紅茶を飲むスフィミアに打ち明ける。


「僕、好きな人が……いるんだ」

「!」


 彼女は目を皿のように見開いた。カップをテーブルに起き、勢いよくこちらに振り返った。


「あらあら……! 私、恋バナ大好きです……! どんな人なんですか?」


 思いのほか食い付きがいい。目がきらきらと輝いている。アドニスはぎゅっと拳を握った。


(スフィミアは鈍いな。僕と交流がある女の人は、スフィミア以外にいないのに)


 好きな相手はもちろんスフィミアだ。子どもだからと相手にされないことは分かっている。でも、彼女と出会ったころの懐かしい夢を見て、気持ちが昂っているのだ。


「すごく……可愛い人だよ。実は僕、前に湖に落ちて溺れたことがあるんだけどね」


 アドニスは記憶がどれも曖昧で、昨日食べたご飯のことも、自分が何者なのかもよく分からない。でも、湖に落ちたときのことはなぜかはっきり覚えている。


「いつだったかは分からないけど……広い庭園で迷子になって、足を滑らせたんだ」


 スフィミアは相槌を打ちながら静かに話を聞いてくれている。


「そのときに女の人が飛び込んで来て、僕のことを助けてくれたんだ」

「そんなことがあったんですね。さぞ怖かったでしょう」

「すごく。……その人が、僕の好きな人」

「あらあら……ロマンチックですね」


 まさか自分のことを言われているとは思っていないスフィミアは、にこにこと話を聞いている。アドニスは身を乗り出し、彼女の顔を覗き込んだ。それから、掠れた声を絞り出すようにして問いかける。


「スフィミア。――湖に落ちた男の子を助けたこと、ない?」

「え……。ある、けれど」


 スフィミアは少しだけ目を見開いた。彼女の青い瞳にアドニスの姿が映っている。


「その男の子はたぶん、僕。もう忘れちゃった? 僕を助けてくれたのはスフィミアだよ」

「……まさか、あのときの……」


 スフィミアを誰にも取られたくない。彼女と過ごすうちに、子ども心にそんなことを思うようになった。叶うなら、自分のことだけを見ていてほしいし、自分のことだけを構っていてほしい。

 アドニスは緊張した面持ちで真っ直ぐと彼女を見据えた。


「いつか僕が、スフィミアのことを守れるくらいの大人になったらさ」

「は、はい」

「僕のお嫁さんになって。スフィミア」

「まぁ……」


 頬を真っ赤に染めて俯くアドニス。

 自分が何者かもよく分からないけれど、彼女のことが大好きなのは確かだ。スフィミアは子どもの言うことだからだと馬鹿にしたりせずに、優しく微笑んだ。


「ええ。――きっと」

「! 本当に……?」

「本当です。アドニス様なら、いいですよ。大きくなったら私のことをお嫁さんにしてください」


 まさか承諾してもらえるとは思わず、目を皿のように見開く。彼女は適当に嘘をついているようには見えない。真剣さを含んだ優しい眼差しでこちらを見つめている。スフィミアのことがいつもより眩しく見えて、目を泳がせる。


「ぼ、僕……もう行くよ。無理させてごめん。お大事に」

「あら、もういいのですか?」

「……うん。おやすみ」


 すっとソファから立ち上がり、後ずさる。今はただ恥ずかしくて、舞い上がってしまっていて、スフィミアのことが直視できないから。


「おやすみなさい。良い夢を、アドニス様」


 柔らかく目を細めるスフィミアに背を向けて部屋を後にした。今だってもう、この上なく良い夢を見ているような気分だ。


 寝室に残されたスフィミアは、アドニスが出て行った扉を眺めながら、「もう結婚しているのだけれどね」と小さく笑った。




 ◇◇◇




 スフィミアの寝室を出て、大人の姿に戻ったハネスは頭を抱えていた。アドニスとしての振る舞いは、全部覚えている。


(何をやっているんだ、俺は)


 額に手を当て、天井を仰ぐ。まさかアドニスが、彼女にプロポーズするとは思ってもいなかった。確かに、スフィミアに対して恋心に近い憧れを抱いていたが、プロポーズなんて大それたことをしでかすとは。想定外だ。


 子どものころのハネスは小心者だったのに、よくも大胆なことができたと思う。


 それに、プロポーズを承諾してくれたスフィミアの笑顔が頭に焼き付いて離れない。感じたことのない胸の高鳴りが、大人の姿に戻ってもまだハネスを襲っている。


(なんだあの生き物は……可愛すぎる。というか、子どもに告白されたらスフィミアは簡単に承諾するのか? 真に受けたらどうするんだ)


 ハネスはばくばくと音を立てる胸を押さえながら、覚束ない足取りで部屋に戻った。

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