13.いつも心軽やかに(最終話)
「姉が言っていたこと……覚えておいでですか」
帰りの馬車の中で、ハネスに尋ねる。不貞の子として虐げられて育ったことは、一度も彼に話したことはなかったし、あんな風に取り乱した姿を見せたこともなかった。
「あなたにとって都合のいいのはどちらだ?」
つまり、忘れろと言えばそのようにしてくれるのだろう。スフィミアはそっと息を吐く。
「隠していた訳ではないんです。でも、私の境遇を知ってハネス様が辛い気持ちになってほしくなかったから、あえて言うことはしませんでした」
優しい彼のことだ。スフィミアの過去に同情して、心を痛めてしまうかもしれない。
「俺はスフィミアが何者であろうと、どんな傷を抱えていようと丸ごと受け入れたいと思っている。あなたが寄りかかれるような存在でありたい」
もう充分なってくれている。少なくともスフィミアは、公爵家に嫁いで幸せになれた。
「ただ……あなたが泳ぎを覚えなくてはならなかった訳を知って……どうしようもなく胸が痛いよ」
ハネスは悲しそうに愁眉した。泳げるようになろうと決心したのは、池に落とされるという陰湿な嫌がらせからだった。しかし、こうして過去を哀れんでくれる人がいるだけで、救われるものだ。鼻の奥がつんとなり泣いてしまいそうになったけれど、ぐっと堪える。
彼のことを見つめ、泣く代わりに微笑むスフィミア。
「池に落とされたおかげで得られたものもありますから。結果オーライです!」
指でブイサインを作る。泳ぎを覚えていなければ、湖で溺れていたアドニスを助けることもできなかった。今思えば、あれもスフィミアの人生にとって必要な出来事だったと思える。
「私……子どものころは、泣いてばかりいるような子でした。でも、池に落とされて溺れたとき、思ったんです。ああ……きっと、これ以上悪いことはこの先起こらない……って。だから、辛い辛いって泣いてるより、少しでも幸せなことを味わえるようにいつも心軽やかにいようって」
スフィミアは続けた。
「どんなに辛いことも、悲しいことも、いつか役に立つんです。幸せに繋がってるって思います」
「……少し、分かる気がする」
窓の外から夕暮れのオレンジの光が差し込み、ハネスのカーキベージュの髪を艶やかに照らしている。スフィミアが、僅かに朱に染った顔で唇を開く。
「あの……お隣に行っても……よろしいですか」
「もちろんだとも。おいで」
優しく目を細める、手招きする彼。すっと座席から立ち上がり、向かいに座っているハネスの横にくっつくように座る。
彼はスフィミアが冷えないようにブランケットを膝にかけてくれた。どちらからともなく手を繋ぎ、彼の肩に頭を乗せる。
「今日は、久しぶりにアドニス様に会えました」
「そうだな。またスフィミアに迷惑をかけてしまった。油断していた」
「迷惑だなんてとんでもないです。会えて嬉しかったです。やはり……呪いを完全に克服するというのは難しいのですね」
「それでも、以前のことを思えばマシだ」
「ふふ、ですね」
ふいに、手を握るハネスの手の力が強まる。
「ずっと……厄介な呪いだとばかり思っていたが、あなたと思い合えたのはこれのおかげでもある。今はこの呪いが祝福にさえ思える」
「そのお言葉で、私も救われた気持ちになります」
彼が今まで、呪いのことでどれだけ悩んできたかは想像もつかないが、自分の存在のおかげで前向きに捉えられるようになったというなら、それほど嬉しいことはない。
スフィミアはそっと目を閉じ、口角を上げた。
「……スフィミアは、子どもが好きなのか?」
「はい。特にアドニス様が大好きですよ」
「あなたの子どもなら、きっともっと可愛いんだろうな」
「!」
突然降ってきた言葉に驚き、かっと目を開いて彼の方を見る。ハネスは余裕たっぷりの様子で不敵な笑みを浮かべていて。
(旦那様は……ずるい)
なら、ハネスの子どもだってものすごく可愛いのだろう。照れた顔で彼を見つめていたら、頬に手を添えられる。
口付けをされるのだろうとそっと目を閉じると、タイミング良くスフィミアのお腹がぐぅと鳴った。雰囲気は台無し。ハネスはスフィミアからさっと離れ、破顔する。
「もうすぐ夕食の時間だな」
「ふふ、そうですね」
今日の夕食はなんだろう。そんな幸せな想像をしながら、ゆったりと馬車の時間を過ごしたのだった。
◇◇◇
数年後。スフィミアとハネスの間に第一子が生まれた。彼はアドニスにそっくりな男の子に成長していった。
スフィミアの実家だが、しばらくは金を無心する手紙を送って来ていたが、そのうちにふつと連絡が途絶えてしまった。領地と爵位も売り払ったらしいが、今彼らがどこで何をしているのかは分からない。
「ち、ちちうえ……! またははうえが道端のきのこを焼いて食べようとしてる!」
「きのこ?」
「赤くて白い模様があるなんかヤバそうなやつ」
「早急に止めろ」
「しょうち!」
公爵夫人は相変わらず食べ物に目がない大食らい。底なしの食欲を管理するのは息子と夫の仕事だ。土地神の祝福を受ける公爵家は、いつも笑い声が絶えなかった。
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