11.家族が大変なことになっています(2)
「スフィミア……!? 何、どうしたの?」
突然抱き締められたアドニスは、びっくりして目を白黒させた。そっと身体を離し、彼の顔をじっくりと眺める。
「あなたに会えたのが嬉しいんです」
「えっ……そ、そう……なの」
「そうなんです」
満面の笑みを向けると、彼は恥ずかしそうに俯いてしまった。とりあえず、道の脇まで連れて行く。
(大変。人混みに紛れて護衛の方たちとはぐれてしまったわ。早く馬車へ戻った方がいいわね)
アドニスに、ここはスフィミアの故郷なのだと説明していると、後ろから聞き慣れた声に話しかけられた。
「……どうしてあんたがこんなところにいるの? スフィミア」
「お姉様……」
そこに立っていたのは、随分と粗末な身なりをしたカルロッテだった。派手好きな彼女は、いつだってゴテゴテの装飾のドレスを身にまとっていたのに。
「その格好は……?」
「別に、なんだっていいでしょ」
「詐欺に遭ったと……聞きましたが」
「…………」
彼女は忌々しそうに、はぁとため息を吐いた。
「お父様がね、怪しい儲け話に乗っかって財産を持っていかれたのよ。本当、馬鹿な人よ」
公爵家からの支度金を全部持っていかれたのだとしたら、父は相当に愚かだ。しかし、母やカルロッテには散財癖がある。詐欺被害だけが困窮の理由だとは考えにくいが、スフィミアは口を噤んだ。カルロッテは、スフィミアの腰にくっついて大人しくしているアドニスに気づいた。
「何よその子ども」
「えっと……この子は……」
まさか、公爵本人だと言っても信じてはもらえないだろう。言葉に迷っていたら、彼女は察したような顔をして腕を組みながら言った。
「ははーん? さては、公爵様の隠し子ね? 遊び好きと噂のお方だもの。隠し子の一人や二人いてもおかしくはないわ。嫁ぎ先で子育て要員にさせられてるなんて、ご愁傷様」
スフィミアもアドニスと初めて会ったときは、隠し子だと思ったのだった。カルロッテはふっと鼻で笑う。ご愁傷様と言いながら、やけに嬉しそうで。
(まぁこの子……ハネス様本人なのよね)
スフィミアとカルロッテのやり取りをちらちらと覗き見ながら、ひと言も発さずに存在を消しているアドニス。カルロッテは、意地の悪い笑みを浮かべて、スフィミアの耳元で囁いた。
「あんたと同じね。スフィミア?」
「…………」
スフィミアがバツが悪そうに目を逸らすと、カルロッテは次にアドニスの顔を覗き込んだ。隅から隅まで品定めするように観察する。
「へぇー、綺麗な顔してるのね」
「えっと……?」
「怖がらなくたって平気よ。そうだ! 好きなお菓子を買ってあげる。お姉さんに着いておいで」
そう言って彼女はアドニスの細い手首を掴んだ。咄嗟にアドニスのことを抱き寄せ、カルロッテを睨みつける。
「どこに連れて行くおつもりですか……!? 勝手なことはしないでください」
「私のこと疑ってるの? 歯向かうなんて生意気ね、不貞でできた子のくせに」
「……っ」
「前みたいに、池に落としてお仕置されたいの?」
スフィミアは下唇を噛んだ。
カルロッテの言う通り、スフィミアは父の不貞でできた子だ。不倫相手はスフィミアを産んでから父が既婚者だと知って自刃し、父は体裁を気にしてスフィミアを自分の本当の娘としたのだ。
父は死んだ不倫相手に負い目を感じてスフィミアを遠ざけてきたし、母とカルロッテは執拗に虐げてきた。些細な失敗をすると、彼女たちに過激な折檻をされる。
屋敷の池に落とされたのは、10歳にも満たないときだった。大人なら足が着くくらいの浅い池だが、子どもにとっては深かった。汚れた水に浮かぶ藻が肌にくっつく感覚や、生臭い臭いまで鮮明に覚えている。溺れて怖い思いをしたスフィミアは、それから泳ぎの練習をこっそりしたのだった。
スフィミアが押し黙っていると、カルロッテはアドニスの腕を強引に引いて言った。
「この子は預からせてもらうわ。あんたがしっかり見てなかったせいで誘拐されたってことで、せいぜい厳しく叱られるといいわ」
「嫌っ……離して……!」
「暴れないで。言うことを効かない子はこうよ!」
アドニスの頬をパシンと叩く彼女。アドニスは顔を真っ青にして目を見開いた。叩かれた頬が赤く腫れる。カルロッテは意地の悪い表情でスフィミアを見た。
「成熟しきってない見目のいい子どもは需要があるのよね」
「……!」
それを聞いたスフィミアは、ぎゅっと震える拳を握り締めた。
「待ってください、お姉様。私が代わりになんでもします。だから、その子には手を出さないで」
泣きそうな顔で懇願を口にすると、カルロッテはアドニスの腕を強く掴んだまま、こちらにずいと迫り、冷めた目で見下ろしてきた。
「じゃああんたが売られて金の工面をしてくれるの? 母親と同じように」
「――っ」
スフィミアはほんの数秒逡巡し、重い唇を開いた。
「分かりま、」
直後、アドニスがスフィミアの言葉を遮った。
「いい、スフィミア。もういいよ。……僕、このお姉さんと一緒に行くから。だからそんな、悲しい顔をしないで」
カルロッテは満足気にふんと笑い、アドニスを連れて行ってしまった。追いかけなければいけないのに。姉に対する恐怖心や過去のトラウマから、地面に縫い付けられてしまったように動かない。足が竦んでしまって。
(動いて……私の足……っ。早く、追いかけなくてはいけないのに……)
溺れている子どもを助けるために湖に飛び込むのはなんの躊躇もなかったのに。こんな肝心なときに身体が固まってしまった。
「ハネス様……」
どんどん小さくなっていく後ろ姿を見ながら、スフィミアは涙を流した。




