第3章-1話 『恋愛のすすめ』
「ちょっと、相模!! こっち来なさいよ」
週始めの朝に恒例となっている風紀委員の校門での立番を終えて、足早に教室に戻ろうとしていた相模を、紫花はちょいちょいと手招きしながら呼んだ。
もうじきホームルームが始まる時間なのに何事かと眉をひそめて近付くと、ぐいぐいと引っ張られて人気の少ない屋上に向かう階段の踊り場に連れられてしまう。
「なに、坂崎さん? もうすぐ8時30分になるけど」
眼鏡の下の茶色い瞳を怪訝そうに細めて、相模は思いがけない行動に出た級友をちょっぴり責めるように見やった。あと5分もすれば朝のH・Rのチャイムが鳴るのだ。このままここにいては遅刻にされてしまう。
まあ、朝の立番に出て居た自分は何とかごまかせるとは思うが。そう考えながら、ふと相模はある光景を思いだした。
「あ……さっき坂崎さんが田尾ジイに没収されたペンダントをこっそり返せ、とか言う話なら聞かないからな。俺だって一応は風紀委員長なわけだしさ」
軽く腕組みをしながら、相模は呆れたように紫花を見やる。
風紀委員の朝の立番といえば、もちろん服装違反者等のチェックである。委員長の相模はある程度の違反に関してはいつも見逃していたのだが、今日は顧問の田尾ジイと呼ばれる体育教師が一緒に立っていたのだ。
紫花はそれに気付かずいつもどおりに校門に入ってきて、まんまとペンダントを取り上げられていた。もちろん後で返却はされるのだが、その際にお小言をもらうのは免れない。それで、自分に泣き付いてきたのだろうと思った。
「ち、ちがうわよ。やーね」
紫花は憤慨したように頭を振った。もちろんそのことも頼みたかったのだが……呼びだしたのは他でもない。美緒のことで話があったからだ。
「じゃあ、なに?」
疑わしそうに、相模は紫花の目をじっと見つめてくる。
これが目の前にいる相手が美緒だったなら、まともに目なんか見られないに決まっている。まったく、この態度の違いはありえない。紫花は苦笑した。
「あのさ、相模。昨日あんた友丸……美緒の犬に手を噛まれたんでしょ?」
にやりと紫花は笑ってみせる。途端に、相模の態度がそわそわとしたものになるのが可笑しかった。
「な、なんで知ってるんだよ?」
「ばーか。私と美緒は親友なんだからね」
「…………」
そうだったといわんばかりに、相模は苦笑した。いつもいつも、学校では金魚のフンのように一緒に居るのだ。美緒に声を掛けたくたって掛けられない状況を作っている一端は彼女にある。
「噛まれたって言っても、別に怪我してないし。なんでもないよ」
ぷいっとそっぽを向きながら、僅かにその目許が赤くなる。噛まれたあとに美緒に手を取られたことを思い出したのかもしれない。
やれやれと紫花は首を振った。美緒が恋愛オンチなら、こっちはこっちで小学生の恋愛レベルなのかと小一時間説教したくなってくる。しかしここでサジを投げては親友の名がすたる。紫花はキっと眦を決し、ずいっと顔を相模に近づけた。
「そんなんじゃ、あんたたち進展なんかしないよ?」
長身の相模にずいっと顔を近づけるその様は、傍からみればキスでもねだっているように見えたかもしれない。もちろん美緒一筋の相模にはそんなことは思いも寄らなかったが。
「なっ、なんだよ?」
「だから、協力するって言ってんの。あのままじゃあ、あの子は友丸に一生取り憑かれそうだもん。親友としちゃ放っておけないのよね」
慌てて一歩下がった相模に、にやりと紫花は言う。ふわりと風になびいたココア色の前髪の下に見える彼の顔は、やっぱり秀麗だ。
前世の恋人だろうが何だろうが、犬に縛られるよりはこっちの方が断然いいだろう。紫花は一人で納得したように、うんうんと頷いた。
美緒の夢の話をきいた時に「運命」だの「ソウルメイト」だのさんざん騒いで煽ったのは紫花だ。それが犬だなんて思いもしなかったけど、やっぱり責任を感じてしまうのだった。
「きょ、協力って……なんのことだよ」
「あんたが美緒を好きだってことは、そこらの雀だって知ってるわよ。知らぬは本人だけってね」
慌てたように赤面する級友に紫花はぴしゃりと言ってのける。あれだけ露骨な態度を取っておいて、しらばっくれるとはいい度胸である。
「…………」
そんな紫花の強い言葉に、相模はぐうっと唸ったきり反論するのを諦めたようだった。
「いい? あの子を救えるのは相模だけなんだからね」
紫花はぐいっと相模のネクタイを引っ張ってさらに顔を近づけると、ちょっぴりおだてるようにそう言ってやる。
「えっ? 救うって……名古屋さんどうかしたのか?」
痛そうに首をさすりながらも、相模の眼鏡がきらりと光った。その表情は真剣で、本当に美緒のことが好きなんだということが良く分かり、紫花はにやりと笑った。
「それは――またあとでね。もうすぐチャイム鳴っちゃうし」
思わせぶりにそう言うと、くるりと相模に背を向けて歩き出す。
「まっ、待てよっ! 気になって仕方ないだろっ」
慌てたように彼女の肩を掴んで、相模は困惑したように眉根を寄せてそう言った。このまま教室に戻ったのでは、気になって授業だって受けてられないと思うのだ。
「でもお……私、今日は朝も田尾ジイにペンダント取られて目を付けられてるし、その上ホームルームをさぼったりしたらなんて言われるか……」
わざとしなをつくるようにそう言ってみせて、紫花はにっこりと相模の顔を見上げた。
「………………」
相模は眉間に深い皺を寄せて、秀麗な顔を忌々しげに歪ませた。けれどもすぐに思い切ったように、深い溜息をつく。
「分かったよ。ペンダントはあとで回収箱から取って来てやる。……ホームルームは、気分悪くなったところを坂崎さんに看病してもらってたって言うから」
そこで紫花を病気にするのではなく自分がなったのは、教師からの信頼度を考えてのことだ。風紀委員長でもあり、日々真面目に生活している自分ならば下手に疑われずに済むだろう。
「ふふ。そうこなくちゃ。じゃあ、今から作戦会議。どっちにしても1限が始まる前には戻らないといけないから、急いで話すよ」
そんな相模の葛藤には気付かなかった紫花は、満面の笑顔でそう返す。
「……ああ」
なんだかいいように扱われ、いつのまにやら紫花に主導権を握られてしまった相模は、美緒がこの少女と親友である事を嘆くように、もう一度大きな溜息をついた。