第2章-1話 『愛犬元気!』
「友丸うーーー! 散歩に行くよーーっ」
玄関先で美緒が声をかけると、リビングから元気よく仔犬の姿が現れた。いかにも嬉しそうに赤い散歩紐を口にくわえて、じゃれ付くように足元に駆け込んでくる。
友丸が名古屋家の一員となってから1週間。既に家族のアイドルと化しているこの仔犬は、大事に大事に家の中での生活を許されている。
見るからに和犬のようなので大きくなることは分かっていたが、この愛らしい仔犬を風雨に晒すのは可哀相だと、家族満場一致での可決だった。
「こーら。靴を噛むんじゃないの!」
隣でガシガシとスニーカーをかじっている友丸に、美緒は叱るように声をかける。このせいで既に一足、美緒の靴はダメになっていた。
「くぅうん……」
ぴたりと靴を噛む行動を止めて、哀しそうに仔犬は美緒を見上げた。うるうると見上げてくるその瞳に、美緒の方が陥落。ふうっと大きな溜息をついて首を振る。
「わかった、わかった。今度、友丸用に噛みごごちの良いおもちゃかって来るから。……ああもう。そんな目されたら怒れないよぉ」
自分にこの犬を躾けることは無理だと早々に諦めて、美緒は苦笑する。
「さっ、いくよ」
しっかりと散歩紐をその小さな身体に取り付けて、気を取りなおしたように美緒は玄関を出る。躾はしっかり者の母親に任せておけば大丈夫なはずだ。まあ、母親は自分だって思う存分可愛がりたいのに、と大いに拗ねるだろうが……。
「こうしてると、普通の可愛い犬なんだけどなぁ」
何にでも興味を持って動き回ろうとする仔犬に、美緒は思わず笑ってしまう。弾むようにはしゃいで歩く友丸のむちっとした太い足と、ぴょこぴょこ動く尻尾が可愛かった。
これが――前世の恋人の生まれ変わった姿なのだと思うと奇妙な気もするが、まあ一緒にこうして居られるだけでも楽しいから良いのだと思った。
「まあ、犬に恋することはないけどねぇ」
肩をすくめるようにそう美緒が言うと、友丸がぴたりと動きを止める。
それまで道端に揺れる雑草に夢中で鼻をクンクンと近づけていたくせに、ちゃんと美緒の言葉は聞こえていたようだ。
「ちょ……友丸、だってね、考えてもみてよ。君は犬なんだし、無理だってば」
恨めしそうに見上げてくる友丸に、思わず慌てて美緒は弁解をする。誰か人にでも見られていたら、犬に必死になって話しかけている自分はきっと馬鹿な娘だと思われたことだろう。
「とーもーまーるー」
ぐったりと、美緒は肩を落とした。何か言いたげに自分を見ている友丸のつぶらな黒い瞳が、可愛いけれども困るのだ。
どうやったって人間と犬は結ばれるわけもない。というよりも、自分にとってはこの犬は『前世の恋人』である前に可愛いペットであり弟。そう、家族のようなものだ。その犬に対して恋心を抱けと言われても、それは無茶な話だ。有り得ない。
「くぅうん」
拗ねたように鳴くので、思わず美緒はしゃがみこんで友丸の小さな身体を撫でてやる。その感触が心地よかったのか、友丸は気持ち良さげに目を細めながら、ぺたりと地面に伏せた。
「やーっぱり、こういうとこは普通の犬だよなぁ……」
くすくすと笑って、美緒はもう一度わしゃわしゃとその手を動かした。
「な、名古屋さんっ」
そうしてしばらく友丸を撫でてやっていると、不意に背後からどこか上擦ったような男の声が聞こえて、美緒は振り返る。
そこには細いフレームの眼鏡が良く似合う、生真面目そうな長身の少年が佇んでいた。
「あれー。相模くん? こんなとこでどうしたの?」
目をまるくして、美緒は相手の名前を呼んだ。
美緒と同じクラスの相模 航という少年だった。さらさらとしたココア色の前髪と眼鏡で隠れたその容貌はよく見ると端正で、密かに女生徒たちからは人気のある風紀委員長だ。
とはいっても美緒は別段この少年に興味がない。……どちらかと言えば、とっつきにくくて苦手な相手なのである。だから学校でも滅多に話すことなどない。
それなのに、学校以外のこんなところで声をかけられて驚きだった。
「あ……いや……その、別に」
自分から声をかけてきたというのに、相模は美緒と目が合うと何故か妙にうろたえたように顔を背けてしまう。
美緒は、相模のこういうところが苦手なのだ。紫花などに言わせると、他の女生徒に対してはそんな態度は取ったことがないらしいので、自分のことが嫌いなのかもしれない。嫌なら最初から声なんか掛けて来なければ良いのにと思う。
――相手が自分に好意を持っているからかもしれない、などとは思いもしない美緒だった。
「こ、この犬、名古屋さんの? 可愛いね……」
そむけた視界に友丸の姿が入ったのか、取ってつけたように少年はそう言った。その眼鏡に隠された目もとが、僅かに赤みを帯びているように見えるのは気のせいか?
「うん。友丸って言うの。可愛いでしょ」
そう答えながらも美緒はわずかに首を傾げる。なんだかいつも以上に、相模は挙動不審に見えた。いったい何の用があって自分のことを呼び止めたのかも、さっぱり分からなかった。
「そっか、友丸っていうのか……」
ふと、相模が仔犬を見やってにこりと笑った。この少年のそんな笑顔を見るのは初めてで、思わず美緒はどきりとする。案外、彼も犬好きなのかもしれないと思った。もしかすると、それで声をかけてきたのか? などと思ったりもする。
もし自分の苦手な相手が可愛い犬を連れていたら……犬の愛らしさに負けてやっぱり声をかけるかもしれない。
そんな美緒の考えを証明するように、相模は友丸の身体を撫でるのにゆっくりと警戒させないよう手を伸ばしていた。しかし――
「いてっ」
相模はバッと手を引いた。
「ご、ごめん、相模くん! 友丸ばかっ!」
慌てて美緒は相模に謝りながら友丸を引き離すように抱きあげる。しかし、友丸は反省した様子もなく、ぷいっと顔を背けるように首をひねった。
そう。友丸は――自分を撫でようと伸ばされた相模の手に、がっつりと噛みついたのだった。
ちゃんと友丸なりに手加減はしているのか、怪我をするほどではなかったようだが、いきなり噛みつかれれば驚きもするし、それなりに痛いだろう。
「大丈夫? 相模くん」
心からの謝罪をこめて美緒は相模の手を取った。相手が仔犬とはいえ、歯跡などの傷でも付いていないかと心配だったからだ。
「わあ!」
すると、相模はさっき友丸に噛み付かれたときよりも迅速に、その手を引いてしまった。驚いて美緒が少年の顔を見上げると、相模は更にうろたえたように視線を泳がせた。
「あ……いや。大丈夫。名古屋さんの犬になら……」
訳の分からないことを呟くと、独りで何故か顔を紅くする。そうしてすっくと立ち上がると、相模は逃げるようにその場から走り去ってしまった。
「……やっぱり、あの人って挙動不審だよね」
去っていく相模の背中をぽかんと見送りながら、思わず美緒はそう呟く。
その隣では、友丸がまるでそれを肯定でもするかのように小さな頭をこくんと動かした。