第1章-3話 『犬と私』
ふわりと仔犬を抱き上げて、美緒は茫然と友人の紫花を見やる。
あまり認めたくはないことだったが、どう考えてもこの捨てられた子犬が『友丸』なのだとしか思えなかった。
先程この仔犬の背後にしっかりと目撃してしまった友丸の姿も。自分のこの胸の高鳴り?も。普通ではありえないと思うのだ。
「な……なあに、美緒。なんでいきなりその犬に『友丸』なんて名前付けてんのよ」
紫花は僅かに鼻白んだように眉根を寄せて美緒と、彼女に抱かれた子犬を見やる。犬好きのこの友人が仔犬を拾って飼おうというのは理解できる。しかし、何故わざわざ前世の恋人の名前をつけるのだろうか?
まさか前世の恋人が犬に生まれ変わっているとは思うわけもない紫花だった。
「うん……だって……ねぇ」
美緒も、一緒に友丸を探してくれるといった親友にそんなことは言いにくかった。しかし言わない訳にもいかないだろう。言わなければこの先もずっと友丸を探そうということになりかねない。
「あのね。たぶん……この子が『友丸』だと思うの」
真面目な表情で、美緒はそう親友に告げる。
「――ばっか……そんな……」
一瞬の間を置いて、紫花は形の良い眉をぴんっと跳ね上げた。そんなことは有り得ない。そう叫ぼうと思ったのに。美緒の真面目な表情に、思わず言葉を呑み込んでしまう。
「…………」
「…………」
互いに言うべき言葉が見つからず、まじまじと無言のまま顔を見合わせた。先に、凍り付いた空気を崩したのは美緒だった。
「この仔犬を見た時にね、『友丸』の姿も一緒に見えたんだぁ。夢で毎日見てたんだもん。見間違えたりしないよ」
くすりと美緒は笑った。その言葉に、思わず紫花は眉をしかめてしまう。
本当にこの犬が『友丸』の生まれ変わりならば、あんな哀しい結末で終わった『みお』の恋はまたもや成就しないということじゃないか。そう思うと紫花は他人事ながら悲しくなった。
「どうして、そんなことになるのよぉ。運命の出逢いじゃなかったの……?」
「あはは。紫花がそんな顔することないじゃない。私は別に悲しくないんだよねぇ。確かにびっくりはしたんだけどね、なんか嬉しい気持ちの方が大きいんだよ、不思議と」
にこにこと、本当に明るい笑顔で美緒は親友の肩を叩く。
もちろん最初は、こんなこと有り得ないと思ったし、酷すぎると思ったけれど、自分の中の『みお』は別に悲しんでいないというのがわかるのだ。心に湧きあがる笑みは、本物だ。
前世の『みお』は、友丸と一緒にいられるだけで嬉しいのかもしれない。
それならば、自分は前世など関係なく『名古屋美緒』としての恋をすればいいじゃないか。そう思えたから、気も楽になった。
「ほら、夢の中で友丸が言ってたじゃない? 『次の生では必ずおまえを守る』って。だからきっと、この子は良い番犬になるんじゃないかなぁ」
淡い茶色の頭を軽く撫でてやると、つぶらな黒い瞳が甘えたように細められ、仔犬は気持ち良さそうに首を伸ばしてくぅんと鳴いた。
「か、可愛いっっ!!!」
その顔があまりにも可愛くて、美緒はきゅっと仔犬を抱きしめた。もともと大の犬好きの美緒である。その愛らしい仕草にノックアウト。完全に母性本能が陥落してしまう。
「もうね、この子飼う。絶対に。パパやママに反対されても飼うもん。名前は、もちろん『友丸』でね」
ふりふりと可愛い尻尾を揺らす仔犬に、美緒は嬉しそうに笑った。
「こんばんはー」
途中で『運命』への寄り道をしたものの、抱える空腹には逆らえず二人と一匹は予定通りに街外れの小さな喫茶店にやって来ていた。
この『とりけらとぷす』はペット同伴OKの飲食店でもある。今のような夕食時には少ないが、昼間などは犬の散歩途中に近所の奥様がたがお茶を飲みに来ることも多い。
だからこの『友丸』を連れているからと言って、追いだされる心配はなかった。
「やあ、いらっしゃい。お二人さん」
二人が店の扉を開けて中に入ると、柔らかそうな薄い茶色の髪と優しげに整った面長の顔が印象的な青年が、にこりと笑顔で迎えてくれる。
たったいま他の客が帰ったばかりなのだろう。その青年……店長の永井芳哉は、左手に食器を載せたトレーを持ち、右手でテーブルを拭いているところだった。
「こんばんは、マスター!! 今日の特製日替わりパスタはなんですか?」
紫花は嬉しそうに店長に駆け寄って、うっとり見惚れるようにそう訊ねる。その表情は誰が見ても、パスタよりも店長が目当てだ。
しかしまだ二十代の半ばから後半くらいだろうと思われる若い店長は、持っていたトレーを再びテーブルに置いて彼女たちに向き直った。
「今日はね、いくらと鮭の『海の親子パスタ』だよ」
くすりと笑って、壁にかけられたブラックボードのメニュー詳細を指し示す。パスタは美緒の好きなフィットチーネを使っているようだ。幅広の麺にとろけるようなクリームソースと赤いイクラの粒が絡んでいて、いかにも美味しそうだった。
「わあ。美味しそー! 私それにします」
「私もそれがいいな」
ブラックボードに書かれた説明と写真だけでも、思わずお腹が鳴ってしまう。二人は嬉しそうにその特製パスタを注文してカウンター席に座った。
「おや、美緒ちゃん。犬を飼ったのかい?」
週に何度かやってくるこの顔馴染みの二人に、いつもとは違った連れがいるのに気が付いて芳哉は笑むように軽く首を傾げた。
「うん。えっと……さっき、そこの角で拾ったの」
しっかりと『友丸』を腕に抱いたまま、美緒はにこりと笑った。
「ああ、そうなんだ。じゃあまだ、美緒ちゃんは飼い主さんになりたてのほやほやなんだね。……良かったなぁ、おまえ。飼ってくれる優しい人が見つかって」
柔らかに目を細めて、店長は友丸の頭をなでようとそっと手を伸ばす。しかし――何故か友丸は身体を硬くして、青年から遠ざかろうと身じろぐように抵抗し、果てはううっと唸りだす始末。
「なに、どうしたの? 友丸? ごめんなさい、マスター!」
その強い拒否の姿勢に美緒はびっくりした。さっきまではあんなに可愛く自分に甘えていたのに、彼に対するその態度の理由がわからない。
「はは。気にしないで良いよ。捨てられて少し人間不信になってるのかな?」
それに拾われたばかりならお腹もすいているだろう。そう言って店長は気にした様子もなく笑顔を見せながら、温めたミルクを皿にそそいでくれる。ペット同伴OKの店だからこそ犬用のミルクがあったのだろう。拾ったばかりで友丸の食べられるものを何も持っていなかった美緒は心から感謝した。
「はい、どうぞ」
店長に触れられることは拒否したくせに、友丸はちろりと一度だけ青年の顔を見上げ、そうして美味しそうにミルクを舐め始めた。
「もう、友丸ったら……。マスターありがとうございます」
「いいえ。――じゃあ、パスタをつくるから二人はゆっくりしててね」
にこりと笑って二人の前を離れると、芳哉は手際よくパスタの調理にかかる。
その店長の姿をしばしうっとりと眺めてから、紫花はやおら美緒に顔を向けた。
「ねえ、さっきのマスターへのその仔犬の態度ってさ、もしかして……焼きもちなんじゃない? あんたの周りにいる男性を警戒してるとか……『友丸』が」
「ええっ!?」
小声で話しかけてくる紫花に、思わず美緒は目を見張り、床でおとなしくミルクを飲んでいる友丸を見やる。
その視線に気がついたのか友丸はふっとミルク皿から顔を上げて、楽しそうに美緒の目を見つめ返すと、可愛らしく「きゃん」と鳴いた。
「……ほんとに?」
それがまるで、紫花の言葉を肯定しているように感じられて――これからの自分の恋愛事情を思い、ちょっぴり不安になってしまった美緒だった。