第0章-1話 『あまりに哀しい前世の恋』
しんしんと静かに冴えわたる夜空にかかった上弦の月が、深い暗闇につつまれた林の中をわずかな光で照らし続けていた。
その月の光だけを頼りに、手には灯明も持たず息をひそめるように走っていた二人の若い男女は、背後の気配を気にするように何度も振り返る。
自分たちを追う人間たちの存在がすぐ近くにまで来ていることは気が付いていた。しかし、こんなところで捕まるわけにはいかず、必死に前へ前へと足を進める他はなかった。
「……みお、大丈夫か?」
慣れない林道と暗闇を走る中で、ともすれば離れてしまいそうなその手を決して放すまいと強く握り直して、青年は少女の名を小さく呼んだ。
まだ春も遠い夜気のせいか、少女の手はしっとりと冷えきっていた。闇の中でハッキリとは見えないが、ほのかな月明かりに照らされた少女の顔はどこか青褪めているようにも見える。
「友丸さま。私のことはどうぞ心配なさらずに……。このくらいの道は大丈夫ですから」
答える少女の柔らかな声は周囲をはばかるようにか細くはあったけれど、凛とした強い意志を宿していた。女の足では確かに辛い道程ではあるが、この青年と共に在るということが彼女にとっては大きな幸福であり、そして失いたくない時間だった。
「もうじき河原に出る。そうすれば新吾が舟を用意してくれているはずだから……それに乗りさえすれば落ち着くことが出来る。あと少しだよ」
友丸と呼ばれた青年は、少女を励ますように笑った。
「はい」
自分を気遣う友丸のその言葉に、にっこりとみおは笑い返す。
こんな夜道を逃げるように走る事になったのは自分のせいだ。自分という存在が居なければ、友丸は今も暖かい部屋の中で夜を過ごしていただろう。それが申し訳ないとは思う。けれどもこの手を放したくはない。それは、互いに共通の思いであるはずだった。
「 ――っ!?」
不意に、がさがさと草木の揺れる音が激しくなった。それと同時にいくつかの灯明の火が狐火のように周囲に浮かび上がる。
追っ手に見つかったのだと気がついた時にはもう――遅かった。
「雅佳さま。このようなところで何をなさっておいでですか? もう夜も更けておりますよ」
灯明の灯りとは反対の方角へと足を向けて走り出そうとした二人の行く手を、ひんやりと冷たい声音が遮った。
雅佳というのは、友丸の元服後の正式な名前だった。幼い頃から一緒に過ごしていたみおはいまだに青年のことを『友丸さま』と幼名で呼んではいたけれど――。
「……お屋形様もひどく心配しておられます。早々にお戻りを」
二人へと向けられた抜き身の刀身にわずかな月の光が反射して、不気味な影を帯びる。その刀の向こうからは、能面のように無表情な男がこちらをじっと見つめていた。
「佐久間……」
悔しげに、友丸は唇を噛み締めた。みおを背後に庇うようにスッと手を広げて、目の前に立ちはだかる男を睨み据える。
灯明を持った追っ手たちに先んじて、この男が二人の前に回り込んでいたのだということは分かった。この佐久間という男が猫のように夜目が利くということも知っていた。
知っていたからとて、どうすることも出来なかったのだが……。
「私は戻らぬ。みおを守ると……共に在ると決めたのだ」
じりじりと佐久間から距離を置くように後退りながら、友丸はきっぱりと言い放つ。ここで家に連れ戻されでもしたら、大切な女性一人さえも守ることが出来ない。そんな男にはなりたくなかった。
佐久間はふうっとわざとらしい溜息をついた。
「雅佳さま、そのような毒婦にたぶらかされて御家をお捨てになるおつもりですか? 腹心と頼んでいた笠原……その娘の父親に裏切られ、今度はご嫡子であられる貴方に裏切られるなど……そんな殿のご心痛、お分かりになられませんか」
その能面のように無表情な顔と同様に、一切の感情がこもらぬ平坦な口調で佐久間は言う。溶けることのない万年氷を連想させる冷え冷えとしたその男の声音が、みおには痛かった。
彼女の父親がとつぜん主家を裏切り敵方に寝返ったのは事実だった。彼女自身は父親から何も聞かされていなかった。
だからこそ手伝いで主家の屋敷に上がっていたみおは、何も分からぬまま……釈明さえも出来ずにその場で捕らえられたのだから。
娘が捕らえられることを承知していないわけがなかった。それなのに父親は造反した。いわば、みおは親に見捨てられた格好だった。
「笠原どのの裏切りは……みおには関係ない」
「そうは参りません。その娘を許しては、お屋形様も他の者への示しがつきませんから」
ひんやりと、佐久間は刃のような笑みを口許に佩いた。
見せしめとして近日中に処刑されることが決まっていた少女を牢から救い出し、友丸は共に逃げようとしたのである。裏切り者の娘を助けたのが他でもない自分の息子では、あるじの面目は丸潰れもいいところだった。
「雅佳さまがどうしても戻らぬと仰せならば、娘ともども斬り捨てるよう、我があるじ佳成さまからは言い付かっております。……それで、よろしいのですか?」
二人の背後に他の追っ手たちもようやく辿りついたことを確認しつつ、佐久間はじっと、青褪めた少女に視線を向ける。崩すならば、この少女からだと佐久間は判断していた。
「 ――!?」
佐久間の予想通り、少女の大きな瞳が驚愕に見開かれた。主家の子息を殺すことをも厭わないという佐久間のその眼差しが怖ろしかった。
「……友丸さま、お屋敷にお戻りください」
自分という存在があるからこそ、友丸はしなくてもよい苦しみを味わうのだ……。
「もう、みおは十分です。友丸さまが『一緒に行こう』と言ってくださっただけで、幸せでしたもの」
にこりと、みおは笑った。漆黒の瞳をやんわりと細めて、笑むように青年を顔を仰ぐ。
ここで戻らなければ、自分だけではなく友丸までもが命を失うことになる。それだけは避けなければならなかった。
「馬鹿なことを言うな、みお!」
繋いでいた手を放そうとする少女を叱咤するように、友丸は逆にしっかとその手を握り直す。この手を放すことは、命を失うのと同じことだと思った。