六話 救世主の夢
(……おきろ、ハジメ)
なんだよ父さん、俺まだ眠いよ。
(ハジメ! 起きて!)
(兄貴! 起きてよぉ!)
なんだ、母さんに、コミチかよ。
うっすら目を開けると、まぶしい照明の光が飛び込んでくる。
視界がだんだん戻ってくると……。
母さんがベッドに寝ている俺にタックルをしてきた!
おぅふ! 肩がみぞおちに入ったぞ?!
「いてて、痛いってば母さん」
周りを見ると見慣れない装置がたくさんある。
「ハジメ! 良かった!」
母さんは俺に抱き着いて泣いている。
コミチも座り込んで泣いている。
父さんは険しそうな表情で俺をのぞき込んでいる。
一体何なんだ? これはどういう状況なんだ?
俺は父さんに質問した。
「ここ。どこ?」
「ここはクエリ重工に併設されている霊子専門の病院だ。成人センターでお前は倒れたんだぞ? 記憶にないか?」
周りを見回している。
心拍数、脈拍などを診る医療機器の他、様々な見たことのない機器が所狭しと置かれていた。
俺はベッドだと思っていたものが巨大な装置だということに気が付くと、その形の特徴からそれが俺の知ってる物に見えてきた。
これは、もっとコンパクトだけど、シエリーゼのコックピットの中にある物だ。
あれ? シエリーゼ? なんだそれ?
「これは……。霊子誘因装置……。」
「ハジメ、お前。これが分かるのか?」
「う、うん。なんだっけ霊子の情報領域? だけど霊子誘因定数があるはずじゃ……」
父さんは俺を真顔で見ている。
俺は頭が急にスッキリした感じなり、すごく気分がいい。
あれ? さっきまで何を考えてたのだろう?
「ごめん、夢を見てたみたいだ、良くわからないや」
「あ、ああ、そうか、そうだな。……お帰りハジメ」
そう言うと、大柄な父さんは俺を母さんと一緒に抱きしめてくれる。父さんの香りがした。
こんな風に抱きしめられたのは子供の頃が最後だったと思う。
俺も父さんを抱きしめ返した。
◇ ◇ ◇
俺は、完全に霊子停止状態。つまり精神的に死んでいた状態だったのだという。
父さんが連絡を受け、クエリ重工の病院を手配したらしい。
そこで受けた説明で、俺の蘇生は霊子スキャンの逆手順を行ったということだ。
簡単な検査をした後、病院側は入院を進めてきたが、俺はどこにも異常がないと言い張ると、一旦に家に戻ることとなった。
逆に、いつもより調子がいいくらいだ。
成人センターでの成人登録は一旦保留で、様子を見てからまた登録手続きの再開を試みるという。
後遺症があるかもしれないとの事で、毎日通院するようにと念を押され、父さんを残し病院を後にしようとする。
父さんは関係者に経緯説明を行うのだそうだ。
あ~あ、毎日通院とか、せっかくの夏休みが殆どなくなっちゃうよ。
もう帰ろうと病院の受付まで戻ると、誰かが泣き顔で俺の方に駆け寄ってくる。
イリスだ。
「どうしたんだよ、イリス。こんなところで」
「ご、ごめんハジメ。私、成人センターでお前が倒れたって聞いて」
両目は赤く腫れている。ずっと泣いていたらしい。
俺のために?
「私が突き飛ばしたせいなのかもしれないって思ったら、どうしていいかわからなくて……」
う、美人にそんなこと言われると、すごい照れちゃうよな。
ていうか、俺の知ってるイリスとだいぶ印象が違うぞ?
俺は気を使ってイリスに柔らかく言う。
「俺に会いに来てくれたのか。大丈夫だよ、イリスのせいじゃないって、それと……」
ん? それと? 俺何かイリスに伝えなくっちゃいけないことがあるんじゃないっけ?
『キィーン』
あれ? 耳鳴りか?
あ……、そう、そうだ。俺、イリスに謝らなくちゃいけないんだよな。
「成人センター前の事は俺もゴメンな。俺イリスの事悪く言っちまった。ホントにごめんな」
俺はイリスにまっすぐ向き直ると頭を深々と下げた。
頭を下げないといけない。そのくらいの内容は言った記憶がある。俺は酷い男だぜまったく。
イリスは泣き顔でうつむいてしまった。
まいったな~と思っていると、母さんが助け舟を出してくれた。
「イリスちゃん? お見舞いありがとう。今日はもう遅いから、帰りましょう? 大きな台風が来てるわ。風も強いしタクシー呼んだから一緒に乗っていきましょう? お家まで送るわね?」
コミチがにやにやしながら茶化してくる。
「あれー? 兄貴こんな美人な彼女いたの~?」
「バカ違うよ、そんなんじゃないよ。イリスさんに失礼だろうが!」
俺は、イリスを気にしながら、コミチを睨む。コミチは嬉しそうにころころと笑っていた。
なんだろうな、すごく懐かしい気持ちになる。
俺は遠い昔から、こういう日常に憧れてたような気がする。
◇ ◇ ◇
タクシーに乗り込むと、母さんと妹と軽く明日の打ち合わせをする。
とりあえず、病院へは父さんの出勤に合わせて行けばいいんじゃないか? と言うことで落ち着いた。
あとは、データで回数券を買ったりしてバスで通院だな。
タクシーに乗っていても、ものすごい台風を感じる。
予報でここは暴風圏の端っこだというのに、時々尋常でない突風が吹き、風切り音と共に車体がわずかに揺れる。
イリスは俺の隣に座って、たまにこっちを見つめてくる。
妹が変な気を利かせて助手席に座ったため、俺が後部座席の中央にいて、右隣りにイリスがいる感じだ。
後ろのシートに三人乗っているので、結構ぎゅうぎゅうな上に、イリスのおしりが大きく俺の腰に柔らかな感覚が広がる。
う~む、これはイイ! 気を抜くと顔がにやけてしまいそうだな~。
そんな風に思ってると、不意にイリスが俺に話しかけてくる。
「ハジメ……さん、明日病院の後お時間空いてますでしょうか」
ん? イリスの奴いつもは呼び捨ての癖に、家族の前で気を使いやがったな?
一応俺も家族の手前、真面目に答えておくか。
「ん~、空いてるぞ? 何か用か」
するとイリスは恥ずかしそうに答えた。
「少し、確かめたい事があって……」
「おっけ~。じゃー、病院終わったら連絡するよ」
「分かった、待ってる……」
最後の方は消え入りそうだ。
イリスの顔は暗くてよく見えないが、少し恥ずかしそうな印象を受ける。
コミチが助手席側から振り返り、相変わらずにやにやとこっちを見ている。
なんだよコミチの奴、彼女じゃないってば。
母さんは相変わらず、黙ってニコニコしているだけだ。
しばらくするとイリスの宿舎に着いた。
イリスは政府管理の人工人類で両親もいない、だから家も宿舎なのだ。イリスだけじゃない、今世界にあふれている人工人類は両親がいない人が殆どで、家族という概念がとっても希薄だ。
俺達は雨の中イリスを送り届けると、再びタクシーで走り出す。
俺はタクシーの中で雨の音を聞きながら、別れ際イリスが口にしていた言葉を思い出していた。
『家族っていいものなんだな』
そうだ、俺もそう思う。
頼もしくて力強く、母さんに頭の上がらない父さん。
優しくて厳しい母さん。
生意気だけど、よく笑うコミチ。
ん~、明日イリスに会ったときに話題がないなーとか思っていたけど、俺の家族の自慢でもしてやろうかな? いつも成績とかでイヤミを言われてたしな!
いやいや、またケンカになってもつまらない。イリスの『確かめたい事』が聞けなくなる。
ま~、会話はイリスの出方次第にしてノープランで行こう!
そんな風に自分の中でまとまると、コミチが俺に話しかけてきた。
「兄貴~、あんな美人な彼女。泣かせちゃだめだよ? 病院で泣き顔見たとき、私どうしようかと思ったんだから!」
「いや、俺にそんなこと言われても困るわ!」
「あらあら~、お母さんもうお祖母ちゃんになっちゃうのかしら~?」
コミチが大笑いしながら言った。
「母さん気が早すぎだしっ! 彼女とか冗談に決まってるじゃん~、兄貴にそんな甲斐性あるわけないしさ~」
「なんだよっ! ったく! 俺は一応半病人なんだぞ?!」
雨の中、会話の絶えないタクシーは家に向かっていった。
楽しい時間だった。
◇ ◇ ◇
次の日は快晴だった。
朝俺は昨日買えなかった買い物を思い出し、買い物前に会えるようイリスに連絡を入れた。
今日は午前中早くから病院での検査が始まる。
霊子系の検査をしない旧式的な物で、血液検査や脈拍、脳波などを取っているようだ。
クエリ重工系列の病院の為なのか、検査には父さんも立ち会った。
今日の父さんはいつものタンクトップにニッカポッカではなく、ちゃんと研究員らしく白衣を着ている。
ただし白衣は、はち切れそうに筋肉の形に盛り上がっていた。
午前中に検査が済むと、俺は病院の食堂で父さんと昼食を取ることにした。
食事中も父さんは俺の体の具合を、しきりに心配してくる。
「ハジメ、何か少しでも体調に変わったことがあれば言うんだぞ?」
「ははっ、大丈夫だよ父さん、心配しないでくれ」
父さんは俺をしばらく見つめていると、不意に話題を変えてきた。
「ハジメ、お前少し大人っぽくなったな」
「え? 成人登録はまだ保留中だぜ?」
「そうじゃないさ、雰囲気だよ、今のお前は何かを成し遂げようとする男の顔だ」
「なんだよ急に、そんなことが分かるのかよ?」
「ああ、分かるさ。親だからな。それに、俺も母さんと初めて出会った時には……」
やばい、これはいつもの話だな。
「いや、やめてくれよその話は、人の多いところでする話じゃないだろ。それに俺が恥ずかしいから……」
「はっはっは、そうだったな。すまない」
父さんは食事を食べ終え、こちらに向き直る。
「それじゃあハジメは、何を今目指してるんだ?」
「そりゃあ、決まってるだろ? 強くなることさ」
「お? 強くなってどうするんだ?」
あれ? そうだよな、強くなってどうする? そんなこと考える人間じゃないだろ俺。
今まで自由気ままに生きてきた俺だ。
でも俺は、強くならなきゃいけない理由を知ってる気がする。
「えっと、強くないと生き残れないだろ? あと強ければ好きになった人を守ってあげられるし……」
「はっはっは、お前もそんな事言うようになってたのか。まぁ、お前の言う強さは何を指してるのか分からんが……、強さを見せるとな、人は反発を見せるものさ。勝ったり守ったりするのに必要なのは、何も強さだけじゃないさ」
「それじゃ、何があるんだよ」
「それは”物事を深く考える事”さ。お前の”強さ”は結果を生むだろう、だけど”物事を深く考える事”は未来を生む。これはやり方の違いで、どっちが良い悪いではない、両方覚えておきなさい。お前が守りたい好きな人を、自分で傷つけないようにね……」
そう言うと父さんは、笑顔の中にどこか悲しそうな顔をしたのだ。
そんな父さんの顔を見たのは初めてだった。
おれは頷くと、黙って食事を続けることにした。
◇ ◇ ◇
父さんと食事を終えると。俺はイリスの待つ喫茶店に向かう。
待ち合わせの喫茶店に着くと、すでにイリスが待っていた。
いつもの制服ではなく、普段より女の子らしいワンピース姿だ。
二時に待ち合わせの予定で、俺が三十分早めに着いたのだが、イリスの奴早すぎるぜ。
彼女は俺を見つけて手を振ってくる。見つけるのが早すぎるぞ? 端末で俺の位置情報でもトレースしてやがったな?
そばまで行くとイリスは俺に声をかけてきた。
「やぁミクニ。今日は買い物だって? 私も付き合っていいかな?」
「えっ? ん~、女の子が行って楽しいところじゃないぜ?」
それを聞くとイリスは怪訝な表情を浮かべ、軽蔑したような口調で言った。
「ふぅ~ん、君は女の子が行けないような”いかがわしい所”へ行くのかな?」
「いや違うって、単にドール用のコアを買いに行くだけさ」
そう、ホントは昨日買いに行く予定だったんだけど、でも俺なぜか死んでたしな!
注文していた俺のドリンクがテーブルに届く。俺はそれに口を付けながら、なぜ買わなくちゃいけないかの説明を始めた。
ガイノイドが欲しくて買えなかった事。3Dプリンタで造形から制御まで一人で組み上げた事などなど。
最後組み込む為のコアが欲しくて昨日買えていなかったこと。
イリスは黙って聞いていた。
「ミクニは変な情熱を持ってるんだな。それに制御まで自分で組むなんて、普通じゃないぞ?」
「俺もそう思うけどな、置かれた環境が環境なんで、何か思いをぶつける趣味が欲しかったんだよ」
イリスは自分のドリンクを飲み終える。
「ミクニにはあきれたね、ま、才能はあると思うよ。ん~、よし、買い物に行こうか」
「只のジャンク屋だぜ?」
イリスは俺に構わず立ち上がってウィンクをした。
「私がいい店を知っている。ちょっと行ってみないかい?」
◇ ◇ ◇
イリスの案内で着いた場所は、高級アンドロイド&ガイノイドのパーツショップだった。
しかも会員制らしく、入り口でイリスは会員証を出し電子認証をパスする。そして俺を店の中に招き入れた。
「え? イリスさんこんな所入れるの?」
「大丈夫だ、もう店に入っているじゃないか」
「いや、そうじゃないってば。ここ高級店だろ?」
「まぁ見ていろミクニ。欲しいのはLⅧ系の互換コアだったな」
イリスは、店長を呼ぶと交渉を始める。
どうやら返却間近の展示品のガイノイドのコアをパーツとして安く売って欲しいという交渉だ。
型落ちとは言え高級ガイノイドのコアが手に入るなら願ったりかなったりだが、そんなにうまくいくのかね?
そんな風に思っていたが、交渉はすんなりまとまったようだ。
ジャンク品同然の価格で上級なコアを手に入れることが出来た。
店を後にしながら俺はイリスに尋ねる。
「イリス、お前すごいな」
「ああ、あそこは得意先だからね。それに私はたまたまコアの原価を知っているし、メーカーから店に展示用で貸し出されたものが、よく空き箱だけで返却されるのも、たまたま知っているだけさ」
「でもそれってお店側やばいんじゃ?」
「あまり大っぴらになっていないだけだよ、ミクニもあまり口外しないで欲しいけどね」
「分かったよ、でもコアってそんなに安いものか?」
「そうだね、開発費は高いけど管理も手間もかからないし、原材料だけで見れば印刷物と同じかな?」
「へーそういう物だったのか~」
俺はさっき買ったばかりのコアをしげしげと見つめた。
「ありがとうなイリス! そういえばお前の要件聞いてなかったよな。『確かめたい事』だよな? 飯でもおごるからさ、どこか行こうぜ?」
「ああ、いや……。それはもういいんだ!」
「いいってお前……」
「それより明日、また時間があったら会ってくれないか?」
「ええ?! ああ、いいけど? どうしたんだ? おかしいぜイリス。何かあるんだろ?」
イリスは立ち止まりうつむく。
「……お前と会うことが……。あぁ、やっぱり私はお前の言うようにおかしいのだろうな」
俺はイリスの手を取った。
「ちゃんと言えよ。気になるだろ?!」
イリスの眼を見ようとするが、彼女は顔を背ける。
ただ、彼女は俺にだけ聞こえるような小さな声でこう言った。「私を、助けて欲しいんだ」と。
イリスは努めて明るい口調を取り戻すと俺の手を振りほどく。
「明日、また昨日の喫茶店で待ってる。今日はもう門限だから帰るよ」
イリスは俺から逃げるように去っていく。
明日、同じ場所で……。
行くのか? 俺。
行くだろ? じゃなきゃ後悔する。
絶対に。
◇ ◇ ◇
翌日、病院の検査から直行で喫茶店に向かう。
まだ待ち合わせの時間には早すぎる時間だ、まぁ、食事を取りながらゆっくり待てばいいだろう。
俺は昨日イリスが座っていた席に座ると、注文を取った。
昨日帰ったら俺は、メイド一号(仮)を組み立てる予定だったが、昨日のイリスの事を考えて手が付かなかった。
座席から見渡す店の外の風景は、さっき俺が通ってきたターミナルがよく見える。
ここで昨日イリスは俺が来るのを待っていたのだろう。
『私を助けて欲しい』。確かに彼女はそう言っていた。
俺は成績も良くなければ運動も苦手だ。父さんは高給取りかもしれないが、小遣いは少ないし、母さんの趣味の増改築で消えている。
イリスと違うところと言えば、やっぱり旧人類って所くらいだろうな。
人工人類の方が優秀だし、俺が助けられるようなところはないはずだけど……。
食事をつつきながらそんなことを考えていると。
喫茶店のドアベルがカランッと鳴り、イリスがはいってきた。俺は手をあげ、こちらだと手を振る。
昨日とは違ったワンピース。結構イリスって色々お洒落な服もってるんだな。
イリスは微笑むと、俺の向かいの座席に座った。
「今日は待たせてしまったなミクニ。そ、そうだ、昨日のコアは役に立ったかい?」
彼女はあごを引き、少し上目遣いで俺を見つめている。
ん? 昨日のイリスとはちょっと雰囲気が違うぞ。
「あ、いやゴメン。俺色々考え事しちゃって、昨日はそのまま寝ちゃったんだ。あはは、疲れてるのかもな」
会話が途切れ、イリスは伏し目がちになる。
なんだろう、こんな雰囲気。俺、知らないぞ。
なんていえばいいんだ?!
「あ、寝たら元気になったから、イリスは心配しなくていいんだぞ? ほらこんなに元気だ」
腕を意味もなく振り回してみるが、イリスは小さく「うん」と答えるだけだ。
クソッ! 会話は苦手じゃないが、なんて返せばいいんだ? イリスの考えてることが全然分からない。
こんなことは始めてた。
まぁ今日は、イリスの必要な”助け”ってのを俺がやってみようじゃないか。
「なぁ、今日はイリスに合わせるからさ。どこに行くんだ? どこでもいいぜ?」
少しの間をおいて、イリスは答えた。
「そうだな……、海。かな」
「よし! 行こうぜ! 海!」
俺は電子決済で喫茶店の支払いを済ませると。喫茶店からイリスの手を引き連れ出す。
ラピスで検索し、最短の公共機関のルートを検索する。
到着時間に合わせ、ロボットタクシーも手配した。
俺に引きつられるように、イリスはただついてくるだけだ。ちょっと昨日よりも歩きが遅いようにも思える。
どうしちまったんだ? 今日のイリスは。
電車で俺の隣に座るイリスは、ずっと伏し目がちだ。
「なぁ、イリス。門限は何時までだ? 心配するなよ、遠くには行かないさ」
「一応九時だが……」
「大丈夫だ。それまでには返してやるよ」
「うん……」
俺はイリスの手を引き、電車とタクシーで海岸までたどり着く。
辺りが、赤く染まってくる。時刻は六時だ。
ここは、俺のお気に入りの海岸。
前に両親と軌道エレベーターの建設現場の見学に来た時に立ち寄った場所だ。
遠く見える海洋上のテラフロートに巨大な塔が建設されている。
アメリカ、中国、インドに次ぐ四つめのバベルの塔。
この場所は比較的自然が残っており、潮風が心地よい。
さざ波の音を聞くと、不思議と引き込まれる感覚に陥ってくる。イリスが海に来たいという気持ちも分からなくない。
遥かな太古、生命は海から地上に進出したのだという。今、人類は地球から宇宙に大きく進出しようとしていた。
父さんや母さんが若いころは海は泳げたのだという。今は汚染により有害だ。
隣でぼーっと海を眺めるイリスを見ながら俺は手すりにもたれかかる。
「なぁ、もう話せるだろ? イリス。何かあるのか?」
「ああ……。私はな、逃げているんだ。ここまで連れてきてもらって感謝してるよ。……海っていいな、ミクニ」
イリスは俺を見るときはずっと伏し目がちだ。
俺の隣にいるイリスは、昨日より薄着で、昨日より良い香りがして……。
夕日に照らされる彼女はうっすらと化粧がしてあった。
そんな彼女の顔に見とれる。
俺は今までイリスの事を何も見ていなく、気づいてあげられなかったんだと思うと急に恥ずかしくなった。
「ミクニ。私の進路はな、ミクニの様に自由ではないんだ。もう決まっていて変えられることは無い。卒業した後の次の学習プログラムも既に始まっている」
進路ややりたいことが決まってない俺とは、全然逆の立場の悩みか、まぁ俺も押し付けられたら反発するかもしれん。
イリスは続ける。
「私はな、そのプログラムがすごく、嫌なんだ……」
「なんとか変更とか出来ないのか?」
「私は政府管理の 人工人類だからな……」
そう言うと、イリスは悲しそうな顔をし、再度海を眺める。
「私は、おかしくなってしまったんだよ。……はっきり言おうミクニ。私はお前の事が好きだ」
俺の事が好き? そんな振り今まで無かったろ?
俺はイリスに好かれるような立派な男なのか?
「イリス、俺……」
キキッ。後ろで車の止まる音がする。
ん? まだタクシーの迎車時間には早いはずだが……。
俺は振り返ると、黒塗りの乗用車から二人の黒服が下りてきた。
黒服はイリスに向かって言い放つ。
「海岸線に近づくことは規約違反だぞ。”Iris00456”」
何が起こっているんだ? 海岸線? 近づいただけで規約違反?! なんだそれ?
俺は何か言いかけるが、イリスはそれを制し、一歩前に出る。
「分かっている。私の隣にいるのは同級生の三国一だ。知ってるだろう。手を出すなよ」
「管轄が違う。だが大人しくすれば何もせんよ」
車に向かってイリスは歩き出す。
振り返らずに彼女は俺に言った。
「今日はすまない。また、あそこで待ってるよミクニ」
「ちょっと待てよ、イリス!」
「動くなミクニ! 頼むからそこから動かないでくれ……」
黒服は俺を警戒しているようだ。
俺の何を警戒すると言うんだ?
イリスは車に乗り込むと、黒服と一緒に立ち去っていく。
その車を眺めながら、俺は、何もできない俺を。彼女の告白に返事をしていない事を、激しく後悔していた。