断章 さかなの記憶
昔むかし。
名もなき森の片隅の、小さな泉に、名もなきさかながおりました。
泉に棲んでいるのは、そのさかなだけ。
話し相手は、たまに水を飲みにやってくる動物だけです。
さかなは寂しくて、寂しくて、毎晩月を見ては泣いておりました。
ある時、その森に二柱の神が降り立ちました。
二柱の神は人々の信仰を受け、それぞれに御座所を構えます。
昼に御座すは、男の神さま。夜に御座すは、女の神さま。
神々は、自然を愛し、木々を愛し、動物を愛し、そして人間を愛し、そのすべてに恵みを与えました。
ある月夜の晩のこと。女神が泉を訪れ、小さなさかなに言いました。
「この月あかりに浮かぶその姿のなんと可愛らしいこと。その胸びれや尾びれがゆらめく様子のなんとたおやかなこと。私の従者になりませんか。」
小さなさかなは喜びました。これでようやく、寂しい毎日から、狭い世界から解放される。
さかなは一生懸命、神に尽くしました。
女神の赴くところには、どこにでも付いていきました。
見るもの、聞くもの、すべてが新しい。
時には森で迷う人の子を助け、時には動物たちに森の恵みを与える。
それはそれは、想像していたよりもずっと素敵な毎日でした。
やがて小さなさかなもまた、人々から信仰を受けるようになり、ついには神格を得るまでになりました。そして、その力が大きくなるに伴って、さかなの姿は変わっていきました。
神の愛する、人の姿へ。
そのことを女神はたいそう喜んで、時には花を贈ってさえくれました。
「私の可愛いおさかなさん。お花をどうぞ。」
けれど。
やがて人々は、神の恩恵を忘れていきました。
少しずつ、神の力は弱っていきます。それでも、神は人を愛しました。
ついには、御座所から離れることすらできなくなりました。それでも、神は人を愛しました。
さかなもまた、泉から離れることができなくなり、それから、長い長い時がたちました。
誰もいない泉の中でさかなは、じっと女神と再会する日を待っておりました。
それは、遠い昔、女神と出会う前よりも、もっともっと寂しい日々。
森に棲む狼の長が、人間を襲うようになりました。けれど、殺されてしまいました。
森に棲む立派な熊が、人間を襲うようになりました。けれど、殺されてしまいました。
たくさんの森の生き物が、人間たちに殺されました。
それでも、さかなは我慢しました。
なぜなら女神は、なお人間を愛していたからです。
ある日、さかなは、女神の力がこれまでになく弱っているのを感じました。
わずかに残された信仰の火が、途絶えようとしているのです。
さかなは嘆きました。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、毎晩月を見て泣いて、星々を見て泣きました。
あの優しい女神が消えてしまうなんて、耐えられない。
もう一人は嫌だ。寂しいのは嫌だ。
こんな姿はいらない。女神が消えてしまうなら、私も一緒に消えてしまいたい。
さかなは思いました。
人間はなんて、恩知らずなのだろう。
人間はなんて、残酷なのだろう。
人間はなんて、愚かなのだろう。
けれど、さかなには人間を憎むこともできません。呪うこともできません。女神の優しい御心を知っているからです。
それでも、心が潰されそうになるのを抑えることができなくて。
やり場のない思いを抱えて、さかなは深い深い水の底に沈んでいきました。
もうこれで、何も考えなくて済む。いっそこのまま、消えてしまえばいい。
その時です。突然、一人の少女が現れて、さかなを見て言いました。
「泉の神さま。お花をどうぞ。」
それは美しい月夜の晩、女神が贈ってくれた、あの白い花。
その花を見た瞬間、さかなの中にため込んできたたくさんの思いがあふれて。あふれて。
さかなは大きな声を上げて、泣きました。
お読みいただきありがとうございます。
今回は短いですが、切りの良いところで。。。
諸般の事情により、今後はこの時間くらいに更新いたします。
ブックマーク、評価、ご意見、ご感想、ご罵倒など、お寄せいただけますと飛び上がって喜びます。