84話 いつの間にかエルフの森
すっかりここでの生活に身体が馴染んだのか、アラームなしで自然に目覚め、すっきり起き上がれるようになっていた。
あれほど寝汚かったかつての自分にそれを教えてやれたとしても、簡単には信じてもらえないだろう。
単純に夜更かしをしなくなった分、朝が早くなっただけなのだが、それだけのことがあの頃は困難だった。
眠らねばとわかってはいるのに、〝時間が勿体なくて〟ついついゲームやら映画やらに手を出してしまう。
瞼を閉じて次にひらけばもう仕事、そう思うと、ますます頭が冴えて遊びたくなってしまい、翌朝は当然寝不足で最悪の気分だ。
今ではそんな強迫観念にとらわれることがない。時間は自由過ぎるほどにたっぷりとあり、だから却って規則的な生活に回帰している。日暮れとともに活動を終了し、ずるずる先延ばしにすることなく就寝、日の出とともに自然に覚醒。
こんな日々をもたらした原因が原因なので、複雑な想いがこみあげてこなくもないけれど、皮肉にもあの頃の自分より、今のほうがずっと健康的でまともな生活だった。
これでもこの世界の基準に照らせば、瀬名の朝はゆっくりしているほうだ。
仕事の関係で起床時間のもっと早い人々はいくらでもいる。
王家だの魔王だの敵国だの、人に言えない個人的な背景だの、それらをひとまず脇に置いて忘れさえすれば、瀬名の毎日は充分にこれ以上なく心穏やかで、のんびりと贅沢な日々だった。
澄んだ空気の森の中を、時おりアクロバット移動をはさみつつ、散歩をしたり薬草を摘んだり、朝食の時間までの一時をそうして潰す。
苔むした岩や倒木の陰に、ごくわずかに氷がこびりついているところもあったが、もうすぐ大地に浸透し、あるいは小川に流れ込むだろう。
(おっ。この芽、天ぷらにしてもらったら美味しいんだよねー)
茶色い木の先端にぷくりと顔を覗かせた、やわらかそうな緑色の新芽の根元にナイフで切り込みを入れ、丁寧にもいでウエストバッグに仕舞う。
すべては採らない。いくつかは必ず残しておく。それが山菜採りの鉄則だ。山ではないのに山菜と呼んでいいのか微妙だけれど。
いつものように気まぐれに歩きながら、けれど今朝はいつもとは違っていた。
(……ん?)
先日まで倒木が折り重なっていた場所が、すっかりひらけていた。
別の場所と勘違いしている?
いや、ここで間違いない。竜の肋骨を思わせる大岩が目印だ。
〈スフィア〉が墜落した瞬間に吹き飛んだ巨木が、大岩を砕いてたまたまそんな形になった。
betaが撤去したのだろうか?
平らにならされた地面――いや、なだらかな階段状になっている。
足を進めると、ぼんやり霞がかった景色の中、石英に似た美しい色合いの石畳が浮かび上がった。
「…………」
さらに進めば、道の随所に流麗なデザインの手すりや、陽輝石をはめこまれた街灯らしきものがあり、見上げれば天高く差し交わされたアーチや、万年樹をぐるりとのぼる螺旋の階段。
ときに根をくぐり、あるいは根そのものが削られて橋になっており、先日までなかったはずのトンネルや、景観にとけこむ窓枠やドアらしきものまでが見えた。
(…………あ、るぇえ……?)
いつの間にか森の中の幻想的な村に迷い込んでいました。
いや違う。
いつの間にかうちの近所に幻想的な村ができていました。
◇
《早い話が移民の受け入れです》
「おおおぉーいぃぃ~?」
いつの間に誰とそんな話を?
などと訊くまでもない。
瀬名が三兄弟のべったり攻撃に息切れしている隙に、オルフェレウスが小鳥さんと一緒にさっさと話をまとめてしまったのだ。
年若い三児のパパと思いきや、中身は老獪な曲者だったなんて――次会ったときは絶対、油断なんかしてあげないんだからね! と瀬名は吼えた。
「移民というのは響きが微妙だな。普通に〝引っ越し〟と言ってもらいたいのだが」
《それは失礼いたしました》
淡い金髪のエルフが苦言を呈し、小鳥氏がしれっと謝る。
いや問題はそこなのか、と誰か突っ込んで欲しい。
三兄弟の長男、シェルローヴェン。やわらかにけぶるような長い金髪に、翡翠色の双眸を持つ美青年である。
筋骨隆々ムキムキのおじ様達に紛れれば、確かにすんなり細く見えた。
が、視覚マジックに騙されず、単体をよく観察すれば、その肉体はしっかり厚みをもっている。
戦士ではなく平凡な町民や農民を比較対象にすれば一目瞭然。ドーミア騎士団にもこれと近い体形の者が少なくない。
ARK氏に身長測定をしてもらったら、百八十九センチメートルだった。
誰だ、エルフは小柄で華奢だとか言ったのは。
家族や親しい者からの呼び名はシェルロー。
兄弟のまとめ役で、知的なしっかり者。何でもそつなくこなせるオールラウンダー。
カリスマ性もあり、森に移住するために残った半数のエルフ達のリーダー。あとの半数はオルフェレウスとともに叡智の森ウェルランディアへ戻り、他の移住者を選定するのだとか。
つまりまだ増える。
兄弟を除いて人員はたったの七名だが、彼らは高度魔術を建築に応用し、わずか数日で小さくも立派な村の土台をつくりあげてしまった。建材は前に〈スフィア〉がなぎ倒した樹木がほとんどで、betaが板に加工して保管していたものも大量にあり、すべて提供したらしい。
しかも彼らの建物は独特だ。樹そのものを自分の住処にしてしまう。内部をくりぬいて加工したり、樹の上に通路を設置したり、空に橋を渡したり――あとで案内してもらうつもりだが、興奮し過ぎて倒れないかが心配である。いちおう鎮静剤を準備しておこう。
「嵐の強風とか地震が来たら建物内は大丈夫なの? 吊り橋切れたりとかしない?」
「問題ない。それらは結界や強化魔術の応用で対策ができる」
「へえー」
また、彼らは虫が室内に侵入しても平気なのかといえば実はそうでもなく、虫が忌避する塗装や香草などを使い、重要な保管庫のたぐいは、特定の虫や獣の侵入を防ぐ結界があるのだそうな。
そして精霊族の住む樹は、枯れない。ひとりでも住んでいれば、中身をくりぬかれようと、その樹は活き活きと健康を保ったまま朽ちないというのだ。
彼ら自身も原理はよくわかっていない。
太古からそうなのだという。
これには瀬名だけでなく、ARK氏も興味津々だった。
全方位に有能なシェルローの得意分野は、もちろん〝統率〟。
瀬名そっちのけでARK氏と話し合い、この〈黎明の森〉のどこに何があるかを把握している彼は、新しい集落を構えていい場所、いけない場所を仲間に指示し、今後増えるであろう同胞をも想定して集落の建設計画を練っていた。
弟達以外の者に〈スフィア〉への接近を許さず、全員がそれを守っている。シェルローが禁域を定め、念のためにARK氏も三兄弟以外を進入禁止とするシールドを張った。
背の高い常緑樹の葉が姿を隠し、上空を飛ばない限り、白い球体を目にすることは叶わない。
ただ、〈スフィア〉の周辺には、瀬名ひとりでは到底消費しきれない果樹や野菜や穀物類の畑がある。
それらはこの世界の人体に悪影響はなく、さらに〈黎明の森〉以外の土地に実験的に植えてみたら、成長速度がかなり遅くなると判明していた。
遅くなってもなお、育ちやすさに変わりはないので、外に広めないようこの森限定の食料として提供することにし、いくらかは新生エルフ村の各所に植え替える許可を出した。
作業用ロボットを彼らに見られないよう、一時的に遠くへ離れてもらい、その間に根がついたままの果樹類を大量に載せて運び込んだ。
ロボットは積荷を置いて〈スフィア〉に戻り、植える作業そのものは彼らに任せた。見た目以上に体力も腕力もあり、魔術で土をやわらかくするも固めるも自在な彼らは、その日のうちにすべてを綺麗に植え替えてしまった。
わずか数日で集落の体裁が整ってしまった朝。
シェルローは肉の確保に、同胞を連れて狩りに出かけていたらしい。
「今朝、我々が狩ってきたばかりの獲物だ。これは新鮮なほうがやわらかくて美味いぞ」
既視感のある台詞。そして笑顔とともに結構な大きさの生肉のかたまりを、笹に似た大きな葉で包み、抱え上げているエルフ。シュールな光景である。
集落近くの小川で解体し、仲間と切り分けてきた肉は、もとの姿が想像できない。
とりあえず美味しいのならいいだろう。
それから、狩りに加わっていた仲間から瀬名の土産にと、この森に生えていない種類の果実の入った籠、花蜜や樹蜜の入った小瓶をいくつも渡された。
「…………」
「気に入らなかったか?」
「や、そうじゃないけど。……ありがと」
だからキラキラの笑顔はやめなさい。目が潰れるから。それもう凶器だから。
力なく内心で訴えた。
(……女性は甘いものが好き、って発想なんだろうな。まあ、嫌いじゃないけどさ)
甘党というほどでもないけれど、甘いものはそれなりに好きだ。
彼らが「これは美味しい」と太鼓判を押すものに間違いはないので、嬉しいは嬉しいのだけれど、ただちょっと、複雑なのである。
――何故なら皆、三兄弟経由で、瀬名の性別を知っている。
知りながら、こちらから頼まないうちに、いろいろ察して黙ってくれている。
根掘り葉掘り事情を問い詰めてくることもしない。
その上で、こういう時にさりげなく〝女性扱い〟をしてくるのだ。
押しつけがましさも嫌味もなく、だから純粋に、どう反応すればいいのかわからなくて困るのである。
そんな扱いをされた経験、〈東谷瀬名〉の記憶にある限り、数十年間で父親以外にただの一人も、泣けてくるけれどただの一人も。
(……やめよう、この話題は)
次に、次男のエセルディウス。愛称はエセル。
この種族にしては珍しく、瀬名と変わらないぐらいの髪の長さだ。
白金の奔放な髪に、鮮やかな青玉色の双眸。口調といい表情といい、いかにもプライドの高そうな王子様風。
兄弟の中で最も背が高く、ARK氏の身長測定によれば、なんと百九十三センチメートル。
そんな、見た目俺様系王子様の得意分野は〝料理〟。
冗談かと思ったら本気だった。
というのも、彼らは長く生きている分、食べ物に対するこだわりが強いらしい。長生きなのだから不味いものばかり食べたくないと、美味を追求してきた結果、自分でも作るようになってしまったのだ。
とりわけ一般的に売られている携帯食料はかなり不味い。焼きしめ過ぎて硬過ぎるパン、涙が出そうなほど塩気ばかり強い干し肉――旅先でそんなものを食べずに済むよう、彼らは獲物を狩り、野草や木の実を採り、それらを自力で調理する知識や技術を一定以上身につけた。
つまり全員がそこそこ料理上手だった。
そしてエセルはそんな同胞の間で、料理の天才と呼ばれているらしい。
からかっているのかと思いきや、目が真剣だった。
今朝の朝食はAlphaとエセルが作った。
天気がいいので〈スフィア〉のキッチンではなく、調理器具を外に持ち出して作ったのだが、エセルの魔術の火加減は完璧で、しかもAlphaのレシピを脇で眺めるだけで憶えてしまう。
しかも、彼らが幼児化していた頃に食べさせた料理の味を記憶しており、故郷でもう一度食べてみたいと、別の材料を使ってほぼ再現してしまったのだそうな。
天才か。
テラスに置かれた白い丸テーブルに、いつもなら瀬名ひとり分の席しかないところ、今は他に三名分の椅子がある。
朝っぱらから大量の肉。しかし、さっぱりした味付けで野菜の上に盛りつけられたそれは、思わずエセルの顔を二度見するほど美味しかった。
しかも柑橘系の何かで風味付けをしており、後味さわやかで胃もたれもない。
瀬名の分はちゃんと量を控えてくれたからでもあるだろう。彼女の食事量をどうやら彼はしっかり憶えていたらしい。
三兄弟は体格に見合ってよく食べた。もの凄く食べた。
あれだけあった肉のかたまりが綺麗になくなり、瀬名は唖然とした。
お上品そうなエルフの胃袋に、キロ単位の肉がすべて消えるさまは、ギルドの男どもの食事風景よりギャップがあるぶん凄まじい。
食べ方が丁寧だから余計にだ。
(男の子の食欲ってとんでもないな……てか、全然がっついてないのに、食べ終わる速度が私と同じってどうなってんの?)
さらにデザートはエセル特製アイスクリームだった。
ボウルに入れた魔牛のミルクに花蜜を足し、氷の魔術でほどよく冷やしながらかきまぜ始めた時は、もしやと思ったが、まさかだった。
これも以前Alphaが出したアイスクリームを、味や食感を思い出しながら「こうすればきっと作れる」と試行錯誤を繰り返し、完成させてしまったのだとか。
あえて色の層が残るよう蜂蜜をざっくり混ぜ込んで冷やし固め、スプーンで削り取るようにすくって小皿に盛り付ける。
瀬名の前に置かれたアイス用のガラス皿には、花の形に盛られたどう見ても完璧なアイスクリームがあった。
味は解説するまでもない。頬がとろけ落ちそうだった。
天才だ。
三人目。末王子のノクティスウェル。愛称はノクト。
身長は百八十六センチメートル。
虹色を帯びたまっすぐな長い銀髪に、紫水晶の瞳。純白の衣装を纏って神殿の奥にいそうな、神秘的な美貌の青年だ。
兄二人と比較して一番背が低いとか思ってはいけない。充分にでかい。顔立ちは遠目に美女と見紛いそうだが、近くで見れば腕や肩などの骨格がしっかりしており、兄達に負けず身体の厚みもある。
物腰穏やかで丁寧な口調。優しげな雰囲気。
得意分野は〝特になし〟。
「わたしだけ平凡で、ちょっと恥ずかしいんですけどね」
ともすれば気弱そうにも見える苦笑で、ほんのり頬を赤らめる末王子。
ここに女っ気のないおじ様達がいなくて幸いであった。
そんな哀れな子羊量産機のノクトだったが、彼の真の危険性はそこではないと瀬名はにらんでいる。
一番性格が大人しそうで平凡そうな三兄弟の末っ子、すなわち最も油断ならない人物だ。
こいつごとき感を日頃から漂わせておきながら、実は組織を裏で操っている裏ボスとか、広域殲滅系の秘密兵器を隠していたりとか、危機に瀕した時に第二の人格が出てきたりする奴だ。
「瀬名? どうして『そういうことにしといてやるか』みたいに思ってるの?」
突っ込まれてしまった。
危険なのでこの話題は長引かせないようにしておこう。
……けれど、やっぱり気になったので、こっそりシェルローに訊いてみた。
「戦闘に突入すると性格が激変する。純粋な戦闘力のみで言えばあいつが最強だ」
やはりか。
小鳥氏とオルフェレウス氏はもちろん事後承諾の確信犯です。
三兄弟もそれに乗っかってます。




