81話 暗躍は青空の下で
ありふれたマント姿の男が丘陵に佇み、飽きもせずひとつの方角をじっと見つめていた。
よく晴れた空だ。風もさほど強くなく、旅人が気まぐれに足を止め、春の香りを胸いっぱいに吸い込みたくなるような。
やがて、心地良く澄んだ空から舞い降りる鳥を発見し、男は腕をゆっくりと上げた。
手首から肘近くまで覆う革製の防具も、さして珍しいものではない。鳥は過たずその部分に鍵爪をひっかけ、翼を広げながらバランスをとる。
男が鳥の足にくくりつけられた小さな筒を外すと、中には丸めた薄い皮紙が入っていた。
「……なんだと?」
男の全身から、剣呑な気配がぶわりと噴き出た。
待ちに待ったその報せは、失敗を告げる内容であった。
あれだけ手間と犠牲を費やしながら、結果は惨憺たるもの。
周囲に誰もいない丘で、遠慮なく垂れ流される不機嫌な気配と殺気に怯え、伝書鳥が羽ばたいて逃げようとするのを、男は首根っこを掴んで阻止する。
しかし読み進めるうちに、殺気は徐々に薄れて困惑に変わっていた。
偶然にしては多過ぎる戦力。
騎士団との連携。
町の各所で見られた奇妙な行動。
仕込んでいた煽り役はことごとく捕縛。
完璧になされていた対策――
まさか、情報が漏れた……?
いや。それなら、種を運び込む時点で阻止されていたはずだ。
何か別件で警戒でもしていたのだろうか? 運悪くそのタイミングに重なりでもしたか。
わからない。
読み進めるごとに困惑は深まる。
「――精霊族だと?」
予想だにしなかった内容に、男は眉をひそめた。
これは事実なのか? 何故、よりによって精霊族が出しゃばってくる?
過去、この国の王族はあの種族に対し、冗談では片付けられない非礼を立て続けにしでかし、現在は絶縁状態となっているはず。いくら市井で細々と付き合いが続いていようと、この件で関わってくる要素など皆無だったはずだ。
精霊族は何事も好き嫌いを明確にし、それが行動基準の大部分を占めている。
何より失念してはいけないのが、軽く五百年は生きる長命種との寿命差による感覚の違いだ。人族が「そんな大昔の話、もう終わったことではないか」と主張しても、祖父母の代から余裕で生きているような精霊族は、「勝手に終わらせるな」と責任逃れを赦さない。
有り体に言えば、怒らせたら根に持つ。
それも、かなり。
連中とまともに付き合おうと思ったら、そういうところを理解した上で長期的な視野を持つか、理解できずとも真摯で善良でつまらぬ悪意など抱かぬような人物にならなくてはいけない。そうでなければ長続きしないのだ。
鉱山族などは後者の代表格にあたるだろう。一般的に鉱山族は傲慢で強欲、己が利益のためなら他者の都合などまるで顧みないと言われており、言葉にすれば確かにそうなるのだが、実際は意味合いがかなり違う。
連中は単に、自分の好きなことに突っ走る傾向が強いだけで、そこに陰湿な悪意は存在しなかった。
そして鉱山族は酒が好きで、美味い食べ物が好きで、鍛冶仕事を心から愛している。強欲は強欲でも、色や金や権力のために魂を売るような欲望とは性質がまるで異なるのだ。
しかもあの風貌と気性からは想像のつかない清潔好きで、花の香りを愛でる感性を持ち、美しい細工物を作成できるぐらい美意識もある。嘘のようだが存外、数多の種族の中で、最も精霊族と気が合うのである。
(鉱山族の国に加勢するのならまだわかるが……)
視野が狭く、目先の利益やくだらない虚栄心を満たすことに腐心する――そんな、ある意味どこにでもいる人族の王家が精霊族を怒らせ、愛想を尽かされた。
男からすれば自分が生まれる前に起こった現実味のない出来事でも、連中は未だにはっきり憶えている――もっと言えば、当事者が百年経った今も全員現役で生きている。
今さら、あの種族とこの国の連中が協力態勢など築けるはずもなく、ゆえに一切警戒していなかったのだが、どこかで何か状況が変わったのかもしれない。
いずれにせよ、今後の見直しをしなければ。精霊族の思いがけない横槍が、この一件だけで済むとは思えなかった。
むしろ、この先も邪魔をしてくると想定しておくべきだろう。
(あの呆れた〝運び屋〟野郎は運良く生き残ったようだが、別に構わん。もし奴が捕まっても、俺に辿りつける情報など与えていない)
むしろ捕まって、支離滅裂な情報を吐きまくり、せいぜい連中を混乱させてくれればいい。
すべての情報は最終的に、特定の方向を示すようにしてある。
(グランヴァル侯爵領を。――奴らがそっちへ関心を向けたら、あとはあの〝姫君〟にお任せだ。せいぜい愉しく踊ってもらえばいい)
長い年月をかけて腐り果てた地は、そうたやすく浄化できるものではない。奴らが根本的な解決を打ち捨て、臭いものに蓋をする対処で速やかな収束を図ったとしても、そこに至るまでにはそれなりの時間を稼いでくれるに違いなかった。
何よりあの〝姫君〟は、自分達でさえ対応に苦慮するほどで、そう簡単に尻尾を掴ませるタマではない。
連中がそちらにかかりきりになっている間、計画に見直しを入れよう。残念ながら今回は成功しなかったが、これが最終目的ではなく、致命的なダメージを受けたわけでもない。
男は皮紙に己が読んだ印を書き込むと、もとのように丸め、小さな筒に仕舞いこむ。
そして、さっきから落ち着かない様子の鳥の足に、再びくくりつけた。
◆ ◆ ◆
美しい花々の咲き誇る庭園で、伝書鳥は美しい娘と向かい合っていた。
落ち着いた色合いの清楚なドレスを身に纏い、清らかな白い花か水晶のごとき透明な輝きを放つ美しい娘は、ほんのり赤く艶めいた口唇を小さくほころばせている。
誰もが、溜め息をつかずにはいられない、清雅な美しさ。
残念ながら、彼女がこの庭園でお茶と軽食を楽しんでいる間は、給仕の者でも呼ばれない限りは近付くことが許されない。
自身もまた花のごとき姫君は、まるでこの世の初めからそうなるべく生まれたかのようにその風景に馴染み、誰も彼女の聖域に踏み入ることなど許されなかった。
ただ遠くから、浮世離れした奇跡の美を眺め、心の中で讃えるのみ。
図々しくもテーブルにとまった鳥を追い払うでもなく、軽食のパンをちぎり、少しずつ与えてやる姿も微笑を誘う。
なんと、心優しく、慈悲深く、愛らしい姫君であることか。
誰も気付かなかった。
姫君がその手元にある薄く小さな皮紙をちぎり、パンと一緒に鳥の嘴へ運んでやっていたことを。
桃色の爪を艶々ときらめかせ、なめらかで白く細い指がテーブルのベルをつまむ。軽く揺らせば、銀色の小さなベルはちりん、と可愛らしい音を立て、離れた場所で待機していた侍女がささ、と傍に控えた。
「お呼びでございますか、姫様」
「ふふ……あのね。王子様に、お手紙を書こうと思うのよ。暖かくなって、お花が綺麗に咲いてきたでしょう? またわたくしと一緒にお茶を飲みながら、我が家のお庭をご覧になりませんか? って……」
「まあ、よろしゅうございますね! ええ、ええ、姫様のお誘いとあらば、殿下がお断りになるはずがありませんとも! きっとお喜びいただけますわ!」
「そうかしら? だといいのだけれど…」
ほんのり紅く頬を染めながら、恥ずかしそうに小首を傾げて微笑む美しい娘に、侍女は力いっぱい「もちろんでございますとも!」と頷く。
「さっそく、ペンと便箋を用意させますわね」
「ええ、お願い。春らしいあたたかな色合いの、お花柄の便箋がいいわ」
「それでしたら、ベルジェの工房が最近届けた、春の新色のものはいかがでしょう? うっすらと薄紅色で染め、春のお花の透かしが入っており、とても丁寧で良いお品になっております。敢えて香り付けはしていないとのことですので、姫様ご愛用の香水をお使いになればよろしいかと」
「素敵ね。そうね、それがいいわ。持ってきてちょうだい?」
「かしこまりました」
侍女は他の召使いに指示を出す。それを横で聞き流しながら、姫君は伝書鳥を撫でた。
つぶらな瞳が、どこかぼんやりと娘の瞳を見返している。
「ふふ……もうすぐ、遊びに来てくださるんですって。楽しみね……」
たくさんお客様がいらっしゃるのよ。おもてなしの用意をしなければね。
とても優雅に、上品に、姫君は愛らしく微笑む。
彼女はまさに、神殿の壁画に描かれた聖女のような――
ところがどっこい。




