73話 招かれざる【女王】の腕 (1)
遠くから出稼ぎに来た者も、近隣から見物に来た者も、誰もが土産話で胸をぱんぱんに膨らませ、祭の終わりを惜しんでいた。
その幸福な余韻を凄まじい轟音が吹き飛ばし、人々が呆然と立ちすくむ向こう、もうもうと土煙があがった。
風が吹き、その〝怪物〟の姿があらわになる。
「……え?」
誰かが呟いた。
どうして。何故。
ここは町の中なのに。
安全な場所じゃなかったのか?
「う、わ……」
「ひぇっ……」
怪物の方角から、悲鳴をあげながら走ってくる者がいた。
悲鳴が口から口へと伝染し、恐怖で喉が引き絞られる。
そして我先にと駆け出した。とにかく逃げなければ――
「皆さん落ち着いてくださーい! こっちが避難経路でーす!」
「!?」
「は!?」
パニックになりかけた人々の視界に、ドンと大きな赤い矢印が映った。
「大丈夫、安全な経路に誘導いたしまーす!」
「そちらは道がせまいのでこっちですよー!」
「慌てて走ると転ぶから気を付けてくれよー!」
「…………」
「…………」
巨大な矢印を描いた板を、討伐者風の男女が高く掲げて揺らしていた。
その矢印がまた、妙に目立つ。大きな板に白い布張り、その中央に真っ赤な布を矢印の形に縫いつけているだけなのだが、シンプルなのに、やたら目立つ。
赤は警戒色だとか、装飾過多だと逆にメインが目立たなくなるだとか、そういう知識は彼らにはない。
なんだか見たことのない、妙なことを目の前でやっていた。
この世界、〝避難誘導〟という概念が庶民には浸透していなかった。それはお偉い方々が判断して対処するものだからである。
思いがけない巨大な災厄が唐突に出現した場合、人々はいきなり騒いで走り出すのではなく、まず思考停止して動けなくなる。いっそ平静な精神状態で、いったいあれは何だろうとぼんやり見上げてしまうのだ。
ところが誰かが襲われたりパニックになって悲鳴をあげたりすると、それが次々に伝染し、大騒ぎになることがある。中には、あちこちで悲鳴があがっているから自分も悲鳴をあげてみたり、みんながあっちへ逃げていくから自分もそっちへ逃げてみるというふうに、何が起こっているかも不明のまま、とりあえず引きずられてしまう者もいる。
必ずしも起こるものではない。逆に一刻も早く逃げねばならない状況下で、民衆の平常心が過ぎて避難の必要性に懐疑的であったり、そんな場合ではないのに財産を動かせないから逃げたくないと拒否されてしまうケースもある。
だがもし、緊急時に人々が狂乱状態に陥り、被害を拡大させる流れになってしまった場合、格段に対処が困難になった。普段のドーミアでは考えにくいが、今は祭りの影響で一時的に人口が増えており、さらに煽り要員の工作班も紛れ込んでいるかもしれない。
瀬名は高ランク討伐者や騎士団の精鋭による〝討伐班〟と、中ランク以下の討伐者や騎士団の後方支援部隊による〝避難誘導班〟とに分けた。一方は怪物の対処をし、一方は民を安全圏まで逃がす――そこまでは、まともなトップであれば想像の範疇にある。
ただし、避難誘導班の〝中身〟が、想像と常識の埒外にあった。
まず、騎士でも警備隊でもない者が、組織立って一般人の避難誘導をするという発想がなかった。
さらに、白い布張りに大きな赤い矢印の板。これを高く掲げ、少し揺らすだけでますます目をひく。
この国の禁色は神殿を意味する白と銀の組み合わせだけで、赤は問題ない。デマルシェリエ領では青と金の組み合わせが騎士団の色なので、禁じられてはいないが遠慮するぐらいだ。
その時のかけ声についても、簡単なレクチャーが行われた。
パニックになる直前、人々は「なんだろうこれ」と視界に入った矢印に意識を奪われ、ぽかんとした。その隙に「避難するならあっちだぜー!」「人にぶつからねえように気をつけろよ~」などといった掛け声が耳に入り、少しして脳に浸透、理解した彼らは「あっちに逃げればいいんだな」と頷いていた。
そんな矢印を持って声掛けをする避難誘導班が、町の各所、とりわけ人が殺到しそうなポイントに散っていた。悲鳴はやがて細く、少なくなり、騒ぐ者は加速度的に減っていく。そうなれば統率の取れた騎士団員の頼もしい励まし、誘導の声がよりはっきりと聞こえるようになるので、人々は怯えつつも驚くほどの落ち着きをもって、彼らの指示に従うようになった。
そして怪物の姿が遠ざかると、ある者はほっと安堵し、またある者は他地区の住民達が建物の上に登ったり、窓から顔を出していたりと、とにかく西地区に注目しているのを目にして、ばつの悪い苦々しい気分に陥るのだった。
逆の立場なら、自分も野次馬になるだろうから。
『最初が肝心だ。敵の狂気が膨れあがりそうになった瞬間に横面をはたけ。きょとんとしてる瞬間がチャンスだ、一気に仕留めろ』
……避難誘導の話じゃなかったっけ?
教官モードになった魔法使いのレクチャーを聞きながら、誘導班が首をかしげていたのは余談である。
◆ ◆ ◆
「ああもう、どうせなら地下からじゃなく空飛んで来いっての!! いくらでも撃墜してやるのに!!」
《それを回避するための地下なのでは》
妖花【イグニフェル】。
魔性植物の中でも、大きさといい凶暴さといい、最大級を誇る。
以前、瀬名がARK教授に嫌がらせ――講義で見せられた、アーモンドに似た形の植物型魔物。
角の生えた兎をバクバク飲み込んでいたそれの、ご丁寧に最上位種だった。
(やっぱこれかよ! つうか、外れなくてよかったなとか、ほんのちょびっと安心しちゃう自分が嫌だ……!)
何か起こったらもちろん嫌だが、何も起こらなければそれはそれで居たたまれないジレンマ。皆は「もしそうであっても気にするな」と笑ってくれたが、もし本当に無駄働きをさせただけで終わったら、申し訳なさと恥ずかしさのあまり全力で己の記憶を消し去り、百年ぐらいどこかへ封印してもらいたくなっただろう。
唯一救いと言えるのは、子供達の劇が邪魔されなかったことか。劇の当日、ウォルドが舞台周辺に強力な守護の魔道具を密かに設置していたが、魔道具が活躍せずに済んで本当によかったと思う。
シナリオもよくできていて、子供の劇と思えぬほどの熱演ぶりに、ラスト付近では涙ぐむ観客の姿さえあった。エルダの魂が途中どこかを彷徨っていたけれど、許容範囲であろう。
「ああくっそ、嫌いなタイプなんだよあの手のモンスターは……!」
逆流する人の波を避けるため、瀬名は建物の上を全速で駆ける。誰かが風の魔術を放ち、広範囲に及ぶ土煙がどんどん晴れていった。
黒緑色のアーモンドもどき――蕾の部分がばっくりと割れ、紅い果肉のような内部に、びっしり生えた凶悪な牙。
金属に似た光沢を放つ何十本もの茨には、ノコギリ状の鋭い棘が生え、少し動くだけで周辺の建造物があっさり破壊されてゆく。
標的が視認しやすくなったのはいいが、今まで見たこともない巨大な怪物の異様に、人々の間で阿鼻叫喚の悲鳴があがった。
しかし、避難誘導班が素早く的確に動いてくれたおかげで、あちこちで起こりかけたパニックは未然に抑えられている。スムーズに人の移動が開始され、それでも当たり前だが結構な大騒ぎになっていた。
「クッ、あの茨やべえ! 傷もつかねえぞ!」
「嘘だろ、魔術も弾きやがった!? 魔力耐性まであんのかよ……!」
通りすがりに、遠距離攻撃を試みていた討伐班の焦りが耳をかすめる。
地面から蕾の先端まで、およそ五メートルほどはあろうか。あれでも、ほんの幼体に過ぎないのだ。
魔性植物の女王と専門書に記されていた、妖花【イグニフェル】。成体なら二十メートル級という冗談のような大きさになり、開花すれば毒や幻惑、麻痺などといったさまざまな状態異常攻撃を繰り出してくる。以前こっそり始末した【ヒュドラム】と同じく、厄災級の魔物である。
誰にとってもかなり嫌なタイプの怪物だろうが、幸い幼体の間はシンプルな物理攻撃のみだ。
魔力の気配が濃厚な土地――すなわち、高濃度の魔素に満ちた地域の最奥に生息し、通常なら魔素の薄い人里まで侵食してきたりはしない。人の生活圏と【イグニフェル】の生息圏はまったく重ならず、素材の採集依頼もないので、知っている者が滅多にいないのだ。
にもかかわらず、それがドーミアの城下町の、結界の内側に突然出現した異常事態。
明らかに何者かによって持ち込まれた、悪意ある災いだった。
(やっぱり、〝種〟も素通りできるんだ)
妖花【イグニフェル】の寿命は短い。冬の到来前に、人の頭ほどの大きさの種を残して枯れる。寒さに弱く、成体は冬を生き延びられない。
高度から落とされた頑丈な種は地中にめりこみ、冬の間中ずっと魔素を吸収し続け、徐々に気温の高くなる頃――土地の気候や種類によって時期はまちまちだが、だいたい三月頃――に発芽するのだが、その光景はまさに爆発。
卵の中身が日数をかけて徐々に成長するのとは違い、〈祭壇〉のエネルギーが阻害する暇もなく、あれほどの大きさに達するまでほんの一瞬なのだ。
種の内部に蓄積されていた魔素で急成長した後は、通常の魔物と同様、栄養を取り込みながらゆっくり成長していく。
瀬名は〈祭壇〉の結界が、魔力ではなく魔素を蓄えた魔性植物の種を、魔物と判別できないのではと疑った。
魔素は、自然界に当たり前に存在し、何者の意図も含まれず、誰の体内で変換されたわけでもない自然現象。少なくとも〈祭壇〉の結界には、そう見做されるのではないか――ARK氏に尋ねたら、《そのようです》とあっさり肯定された。
幼体になれば、もう通常の魔物と同じ。魔素は魔力に変換されるようになり、この場所であれ以上の成長は難しいだろう。
が、なんといっても今の時点で五メートル級だ。しかも、冬眠明けの生まれたてで腹をすかせている。
とどめに、あの茨。あれのせいで、実際の本体よりも巨大な魔物と変わらなくなっていた。
この【イグニフェル】、生まれた直後の幼体同士で共喰いする習性があった。喰い合いに勝利した、強い個体のみが生き残るのだ。
けれどこの場に他の幼体はない。ひとつが発芽すれば、近くにあるものもその気配に呼応して発芽するので、今回持ち込まれた種は一粒だけだったようだ。
幸い、とは言い難い。共喰いを期待できないからである。
手近に同種の幼体という豊富な栄養源がなく、土や水から吸収できる魔素量も本来の生息域と比べて極端に少ない人里となれば、なおさら空腹になるだろう。
ゆえに、目につく獲物は片っ端から捕え、その血肉から魔力を取り込むべく、凶暴さが増す。
「うわあああーん!」
「危ねえぞ、早く離れろ!」
「ひいいい!」
近付くほどに地獄絵図が増えていった。
ドーミアは東西南北の四区画に大きく分かれ、西地区はあまり豊かではない人々の住む区域だ。その一部は貧民街になっている。辺境伯は国内でも有数の優れた領主だったが、貧富の差は彼でさえ如何ともし難く、とりわけ問題になっているのは他領や他国から逃れてきた難民の扱いだった。
食い詰めて逃げて来た者ばかりなので、当然ながらみな貧しい。生きるために犯罪に手を染める者も多く、町の住民との軋轢も生じやすく、彼らが一部地域に集まって、どうしても貧民区が出来てしまう。
【イグニフェル】の種が破裂したのは、そんな貧民街のど真ん中だった。
偽善者になるつもりはないし、なりたいとも思わないけれど、誰も彼もがゴミのように建物ごと潰されて、無残な最期を迎えてもいいとまでは思えなかった。
貧しさに敗北し、心底から腐り果てた者も多いだろう。けれど中には耐えながら、必至で這い上がろうとしている者もいるはずなのだから。
(なんか、ムカつくな……)
これを命じた輩が、自分はどこかの安全圏でのうのうと飯を喰っているかと思うと、腹の内側をやすりで撫でるような凶悪な感情が湧き上がってくる。
(……!)
眼下に、見覚えのある仲間達の姿が見えた。
グレン達だ。
もし何事も起こらなかった場合
瀬名:「あああああああああああすいませんすいませんすいません……」
討伐者の方々:「ラクして稼げたぜラッキー♪」
セーヴェル団長:「ふむ、避難訓練か。騎士団に取り入れてみるか」←起こっても同様




