54話 物語を開始しますか Yes/Yes
昼頃から空模様があやしくなり始め、夕暮れになる前から薄暗さが増し、やがてぱらぱらと小さな水滴がまぶすように地面を濡らし始めた。
「やっぱ降ってきたかぁ…」
《この日に約束をしていて正解でしたね》
「だね」
光王国では冬近くなると、天候が急変しやすくなる。遠方の山の上部がうっすらぼやけ出す頃から、町中の宿に客が駆け込み始め、今から部屋を見つけようとしてももう遅い。
瀬名は幸い、指導役の面々と約束があり、もとからドーミアに泊まる予定だったので、既にギルドの宿の一室を確保していた。
アスファ、エルダ、リュシーは本日、午後の半日が休み。毎日ひたすらみっちり訓練をさせてきたので、たまには休息も必要だろう。
エルダは自室で爆睡しており、アスファとリュシーは素材専門のギルド員から講義を受けている。真面目なリュシーはともかく、アスファが自主的にそれに加わっているのは少々意外だった。どうもエルダとリュシーの二人を間近にして、心境に変化が生じてきているらしいのだが、このまま順調に良い方向へ変わっていってもらいたいものだ。
「ローグ爺さんは残念ながら、親戚の店の手伝いに駆り出されてしまったらしくてね。すまないが、彼に会ったらウォルドから伝えておいてもらえるかな?」
「わかった」
ギルド長の応接室で、瀬名とグレンとウォルドは来客用のソファに腰を落とした。対面のソファに座っているのは、グレン経由で何度か顔を合わせたことのある討伐者ギルドのドーミア支部長、ユベールである。
中肉中背、一見すればどこにでもいそうなおじさんだが、現役時代は金ランクのハンター、それも頭が切れるタイプだったらしい。
およそ二十年ほど前、聖銀ランクを目前にして怪我で引退、そのままギルド長に。辺境伯とウマが合い、身分差はあれど友人付き合いをしている、のほほんとした外見以上に出来る男なのだとか。
「そうだ、うっかり渡しそびれるところだった。――これどうぞ。片方はサーニャさんに渡しておいてください」
「ん、これは?」
「プラメア酒です。このあいだ試飲してもらった……」
「ああ、あれね! ありがとう、嬉しいな。美味しかったんだよねえ。サーニャも喜ぶよ」
サーニャとは副ギルド長の名だ。ユベールより年かさで、おっとりとした教師のような雰囲気の女性である。
討伐者の経験はなく、窓口の受付嬢から始まり、裏方の事務仕事で才能を発揮して出世した人物だった。
二人の共通点は、甘味に目がないところ。二人とも頭をよく使うタイプの人種だからだろう。甘いものは貴重なので、素朴なドライフルーツのようなものでもかなり喜ばれる。
前回土産として持ってきた時は、さすがに全員分を配り切れるほどの量はなかったので、ユベール達には試し飲みで我慢してもらったのだった。
――そう、今や配り切れないほどの知人が出来てしまっていた。〈スフィア〉でこの国に墜落したあの頃を思い返すと、いろいろ感慨深いものがある……。
「グレンとウォルドもどうぞ」
「お、俺らにもくれんのか?」
「すまんな」
「ウォルドは飲んだことないよね? そのままだとかなり甘くて酒精が強いから、別の酒や果実水で割って飲むのもいいよ。ローグ爺さんにも渡しておいてくれる?」
「ああ、わかった」
「俺はこれ結構いけたぜ。ローグ爺さんの孫娘も甘党だから喜びそうだな。つか、これじゃ少ねえとか文句言いそうだぜ」
「あはは……」
孫娘とやらもあの勢いで飲むのなら、確かに言われそうだ。
(お酒も悪くないけど、もっと別の温まるもんも考えておこうかな……寒くなるのあっという間だからなあ)
土産を渡し終えると、ユベールが真面目な表情で両手を組んだ。――今日は、お喋りを楽しむために集まったのではない。
討伐者ギルドは古いがどっしりとした構えの建物で、見た目より優れた防音仕様になっている。それにもし聞き耳を立てようとする者がいても、グレンの耳と嗅覚を誤魔化すのは難しいだろう。
「グレンとウォルドには既にこの話をしてある。例の三人には伝えていないけれど、特に隠していることでもないから、いつか噂か何かで耳にするかもしれない。だから、セナの判断で、そのうち説明してあげても構わない」
「……例の、ギルド長の手紙に書かれていた諸事情ですか?」
「ああ、そうだ」
これが、本日の本題だった。
「手紙にも書いたけれど、我々は今、新人を最低限、足手まといにならないレベルにまで引き上げる必要がある。それもできるだけ大勢をね。アスファ君、フラヴィエルダさん、リュシエラさん達は皆、ああ見えて問題ありと手放すには惜しい素材で、できれば鍛えたい人員枠に入っているんだよ」
グレンもウォルドも、神妙な様子でユベールの言葉に耳を傾けていた。
この中で瀬名だけが初めて裏事情を聞くのだが、リュシーはともかく、あのアスファとエルダがそこまで高評価なのは意外であった。
「ところで、君がこの件をどの程度把握しているか確かめたいんだけど、聞いてもいいかな? こんな切り出し方をしておいて、実はとっくに全部知ってるんだったら、ちょっと恥ずかしいんだけど」
「いや、把握も何も、諸事情が何なのかまるで見当もついてませんが。根拠なく想像だけで挙げるなら、物騒な隣国が裏でこそこそ暗躍してそうな臭いがするのかなとか、スタンピードでも起こりそうなのかな、とかぐらいですかね」
「すたんぴーど?」
「あっと……大海嘯、って言えばわかりますか? 比喩的な表現ですが。……魔の領域で、魔物が増え過ぎたか何かの原因で、そこに棲んでいた奴らが生息域の外まで大量に溢れかえって押し寄せて来る……ていう現象……」
説明しながら、瀬名は内心「ヤベ、まずった」と舌打ちした。
好きなゲームで使用されていた用語をそのまま口にしてしまったのだが、直訳できる単語がないということは、すなわちこの国には過去、そういう事例が存在しなかったという意味なのではないか?
目を丸くした三人の視線が痛い。
「……さすがだね」
「はい?」
ぽつりと呟いたユベールに、反射的に訊き返す。
「大海嘯……そう、そんなものがあるのか……」
「あー、ユベールさん? あくまでもこれは単なる思い付きですから……」
真剣に受け止められてしまうと、かなりいたたまれない。元がゲーム知識なだけ余計に。
しかしユベールは、そんな瀬名に困ったような笑顔を向けた。
「両方、当たりと言っていいかもしれない」
「は?」
「停戦条約が結ばれて以降、しばらく大人しかったお隣さんが、いよいよあやしい動きを見せ始めてね。いつまた条約破りをしでかしてもおかしくないって、多くの旅商人が移動を始めているんだ」
「……まじですか」
「嫌なことにね。でももっと最悪なのは……」
「え、ちょっと待ってください。まさか本当に?」
「断言はできない。でも、どこかで起こってもおかしくはないだろう」
ユベールが「いやいやまさか、冗談だよ」なんて茶化してくれないかな、と瀬名は儚い希望を抱いたが、そんな気配は微塵もなかった。
「数年前から、他種族の噂話が伝わってきていたんだ」
「噂……?」
「そう。もとが余計な尾ひれ背びれをつけない種族の噂でも、人族の間で流れるうちにどこかで脚色されてしまうから、どこまで正しい情報なのか曖昧で、本気にしていた者はそう多くはなかったと思う。けれど、念のため調査だけは続けられていてね。長いこと目ぼしい成果はなかったんだが、どうも精霊族がその話の出どころだったと判明したんだ」
「精霊族が?」
「そう。君は彼らの同胞の子を助けただろう? それがきっかけで、彼らは我々とも直接情報を共有してくれる気になったらしい。そこで初めて、信憑性が高いどころか、これは確定事項だ、って断言されてしまってね」
だから、可能な限り速やかな戦力増強が必要になった。
さらに彼らは、極秘事項として情報を隠蔽するのではなく、万人に伝えた上で万全の対策をとれと助言してきたという。
変に隠そうとすればどうしても行動が制限されるし、後手に回ってろくなことにならない。それに不正確な情報が中途半端に流出すれば、人族の国ではすぐにパニックが発生する。
ならば正確な情報を、あらかじめしっかり望ましい方向に広めてやればいい。誰もが危機に対して心構えができるように。そう持っていけ、と。
(へえー。なんかわかってるね?)
プロパガンダはとても大事だ。ちびっこ三兄弟は素直でいい子ばかりだったけれど、大人は融通のきかない潔癖種族のイメージがぬぐい切れなかったのに、そうでもなかったらしい。
密かに感心する瀬名を余所に、ユベールはひとつ大きく息を吸った。
「――魔王が、誕生したらしい」
この世界の、どこかで。
長い長い十六歳編、ようやく……!
次から章が変わります。




