35話 十六歳、騙し討ち的になんちゃってを返上
その日瀬名を襲ったのは、かつてないほどの鬱状態だった。
しぶとい、図太い、立ち直りが早い。周りからそう評価され続け、自分でもそう思っていた。社会人時代の記憶にさえ、これほど底無しの鬱に陥った経験はない。
前夜からまともに食事をとらず、水分補給もせず、日よけもない夏の炎天下に長時間身をさらし続けていたのだから、倒れたって何らおかしくはない。むしろ自然だ。瀬名は〈スフィア〉の治療室に運び込まれ、さらに前夜は眠りが浅かったためにそのまま熟睡し、夕方まで意識が戻らなかった。
瀬名がそのようになるまでARK氏が放置していたのは、意識のある時に無理に連れ戻そうとしても、頑としてその場を動かないと踏んでいたからだろう。
Alphaとbetaも、その日はひとことも喋らなかった。下手に声をかける行為も逆効果と判断したARKが、そう指示していたようだ。
回復して目覚めた後も、精神状態はどん底を這い、何をする気も起きず、ダラダラじめじめ鬱々と、延々ベッドの上で寝ころがって過ごした。
(名前訊かれて、あんなショック受けるとは思わなかったな……)
知人が増えるにつれ、自己紹介など今まで何度もやってきたのに、どうしてあの時に限って平静ではいられなかったのか。
この国の公用語でさらさらっと書いてやれば、それで済んだのに。
それだけの話だったのに。
翌日も鬱々ごろごろして過ごし、気付けば三日目の朝になった。
生活リズムが乱れ、また前日の夕食をとり忘れ、喉の渇きと空腹がひどい。
まる二日間ひたすら動かなかったはずなのに、全身に重石が乗っかったような疲労感を覚え、ようやく「やべ…」と起き上がった。
「いかん」
瀬名は己の両頬をぱしんと叩いた。
「やばい」
これは、うっかり長期化させたら確実にまずい。
このじめじめ鬱々澱んだ空気を、多少無理やりにでも吹き飛ばさねば。
全身を包む倦怠感に初めて危機感を抱き、なるべく勢いをつけて立ち上がると、それを待っていたかのように、ARKが《マスター》と声をかけてきた。
◇
ARK師はぬかりがなかった。
おそらくはこの状況を見越し、前々から密かに準備していたであろうとんでもない劇物を、このタイミングで瀬名に与えてきた。
「……コレは一体何かね?」
《先日開発に成功した〈精神領域刻印型魔導式〉、名付けてソウル・オブ・グリモワール・システムです》
「…………おいおいおいおおーいい?」
〈精神領域刻印型魔導式〉――知覚し得る範囲内の魔素に直接働きかけ、操ることができる優れもの。
(……なんだそれは)
魔素とは、魔力を構成する最小単位である。ひょっとしたらもっと小さな単位があるかもしれないが、あくまで現時点で観測し得るのは魔素までだった。
魔力とは大雑把に言えば、魔素がいくつも結合し、その個体が扱うのに適した形状、大きさになったかたまりのことを言う。瀬名には魔素を己に適した魔力に変える器官などないので、ARK博士はそもそもその必要がない方法を模索し、そして編み出したのだ。
魔素をそのまま誘導・結合させて何らかの事象を発生させ、逆に結合をといて魔力を魔素に還元し、発生していた事象を掻き消すことも理論上は可能となる、禁断の魔導式を。
(なんだそれは)
この〈精神領域刻印型魔導式〉――長いから〈グリモア〉でいいか――いくら行使しても瀬名自身はまったく消耗しない。瀬名の保有魔力を消費するのではなく、世界中どこにでも漂っている豊富な魔素を利用するものだからだ。
《理論上はドーミアの守護結界を消滅させることも可能です》
「言うなそれ言うな絶対人前で言うな断じて言うなよ……!!」
《かの守護結界は自動発動型ですので、一時的に消滅させても放っておけば再構築されますよ。なお、その際に生じるあなたの疲労度合いは、〝ちょっと頭を使って疲れたから甘いものが欲しいな〟程度と予測されます》
「うぉああぁぁあぁなんつーモノをおおぉ……」
会得方法はとても簡単。特別な道具や呪文などは何も必要とせず、ただそれを記憶するだけでいい。
問題は、常人の頭でこれをまともに憶えることなどできはしない点だ。膨大な量の文字や図式で描かれた魔導陣があり、仮にそれを現実に描き起こせば、この国がすっぽり入るほどの広さになる。見本を描くだけでもちょっとした大事業になるし、端から端まで歩くだけでひと苦労だ。
大国いっこ分の魔導式とか正気の沙汰じゃないと思う。
魔導式として機能させるため、古代語を始めとする魔術言語が要所に組み込まれているほか、アルファベットやアラビア数字やローマ数字や各種記号やひらがなやカタカナや漢字などを使用。それらはまるで何かのプログラムのように書かれているというか、どう見てもプログラムだった。
剣と魔法の世界の魔導式をコンピュータ言語で書くとか、ARK博士の中で一体なにが起こっているのか凡人には理解不能である。
コレを完璧に憶えろと? 無茶を言うな。
無茶が実現した。
おなじみ補助脳経由のインストール記憶法である。
もちろん寝込んだ。
せっかく起きたのに。
道理でAlphaに瀬名の好物をたくさん作れとか、デザートを豪華にしろとか指示してくれたわけである。
(うまいものたっぷり喰って外走ってスッキリしてこい的な善意解釈してた自分の甘さが憎い……!)
瀬名は脳に完全記憶として叩き込まれた後で、それの正体を明かされた。つまり事後承諾である。このやり口は詐欺だ。紛うことなき詐欺の手口だった。
ちなみに〝知覚し得る範囲内の魔素〟とは、〝視界の中の見渡す限りの範囲内にある魔素〟のことである。あくまで距離の目安なので、目を瞑れば魔素を扱えなくなるといった性質のものではない。
また、己の体内にある魔力を運用するわけではないので、瀬名が動かせる魔素量に、基本的に上限はなかった。
チキンハートのたびびと・レベル1に最終兵器を与えるなと何度言ったら。
◇
とにかく押し付けられてしまった以上、使い方には慣れておかねばならないだろう。
長いこと仕舞いっぱなしの武器を、いざ使わなければいけない段階になり、そんな時に限ってうっかりコントロールをミスしたりして、辺り一帯が更地……などという事態になったら嫌だ。
取扱い説明は最初から〈グリモア〉内に組み込まれているので、ARK氏にいちいち尋ねなくともわかる。
幸いにしてこの魔導式は、イメージが命。つまり東谷瀬名が親しんでいたファンタジー文化と、小中学生程度の理科の知識さえあれば事足りる。
数多の魔法における定番なので、扱い方はすぐに飲み込めるだろう。というか、ARK氏は瀬名が扱う前提で研究開発しているので、基本的に瀬名が違和感やとっつきにくさを覚える複雑仕様にはしないのだった。
目視し得る範囲内の魔素量は、控えめに言っても膨大だ。半径数メートル内の魔素量は微々たるものでも、半径数百メートル内となれば、塵も積もればなんとやら。
ちなみに瀬名は、肉眼で魔素そのものが見えるわけではないが、「あのへんの魔素が濃ゆそうだな」と、なんとなく感じ取れるようになっていた。これは〈グリモア〉内に魔素を感知する魔導式も組み込まれているからだ。
センサーを切り替えるように、脳内で認識する魔素に色や光の濃淡をつけて見分けることも可能になっていたが、眩しかったり視界がうるさくなって辟易したので、現状の無色透明で落ち着いている。
訓練場はARK氏がいつの間にか森の中に造っていた。木々に囲まれて爽やかな青空の下、まるで舞台のようにシンプルな円形広場が出来上がっていた。
強力な不可視の結界で囲まれ、この世界の高位魔術ぐらいなら簡単に阻み、内部で多少うっかり暴発しても、外へ被害を出さない仕組みになっている。
「畑を拡張してるんじゃなかったんかい!」
そして〈グリモア〉を開発したのはいつでこれを設計したのはいつだ。
マッドドクターARKによる〝セナ=トーヤ強化計画〟は、着々と進行していた。
そもそも剣と魔法の世界で、「剣は使えますけど魔法てんで駄目です!」な状態を、ARK博士が放置するはずもないのだった。




