315話 (4)
最終話です。
〝黒の魔女の逃亡阻止作戦〟
デマルシェリエ領にて黒の魔女の逃亡を阻止せよ
銀ランクパーティ以上 長期
〝依頼人 精霊の森〟
「……ミュリちゃんよ? 俺、普通の、討伐系の依頼がいいなっつったよね?」
アスファは無になっていた。
経験の浅さを可愛い顔と仕草でカバーする討伐者ギルドの受付嬢、二つ名を〝やらかしミュリちゃん〟。彼女のオススメ依頼は高確率でデッドオアアライブ。未だクビにならないのは、この罠を見抜けるか否かで実力の有無をふるいにかけているからでは、とまことしやかな噂が流れている。
「でもぉ、アスファさんのパーティ、昇格資格あるから実質銀ランクなんですよね? 銀ランク受けれますよぉ? この依頼、皆さんに声かけててぇ、だから、どうかな? って――あああっ、なんでよけちゃうんですかあ!? ちょ、埋めないで!? ソレは植木の肥料じゃないです!? もおお~っ、依頼書をこんな土まみれにしちゃって~っ、査定に響いちゃいますよお!?」
「望むところだ。こっちの依頼受ける」
「え?」
「こっちの依頼、受ける」
「えええっ? でもこれ、初級者向けですよ~? ギルドから年中出してるフツーのやつですしぃ、わざわざコレにしなくてもぉ」
「こ・れ・を・受・け・る。受けるったら受ける!!」
「はぁーい……」
頬をぷむぅっ! とふくらませた美少女の不満顔を全力で無視し、アスファはその足でギルドの食事処へ向かった。
「とゆーわけで、一刻も早く辺境を脱出すべきだと思うんだ。勝手に決めてごめん!」
潔く頭を下げたリーダーに、先にテーブルで待っていた仲間達から不満の声はなかった。
「正しい判断ですわ。巻き込まれる前に一刻も早く発つべきでしょう」
真剣な表情で理解を示すエルダ。
「損のない依頼だと思いますよ? 素材の買取以外に討伐報酬も入りますし、何匹以上をいつまでという指定がなく、他支部でも完了報告ができる。最悪討伐できなかったとしても、単に私達の収入にならないだけで、評価には響きませんし」
依頼内容を吟味して納得するリュシー。
「へへ、路銀稼ぎながら旅すんのにちょうどいいと思ってさ! シモンは?」
「僕もいいよ? 『シモン君てカワイイけどお友達としか思えないの、ゴメンネ♪』って言われちゃったばかりだし。遠くに行きたいよね。あはは~」
「…………」
「…………」
「…………」
誰に。いや、傷口を抉ってはならない。
仲間達は自分の皿からシモンの皿に〝スウィートポテト〟をそ、と移した。
ほくほくしっとり、やわらかくて甘いおやつは、少し前にどこからか広まった人気のおやつだ。
「とにかく! メシ食ったら準備して、明日の朝にゃ出発ってことでいいか?」
「簡単な準備だけで間に合いますかしら?」
「イシドールまでならそんなにいらねえと思うぜ? そこを出た後が本番だからな、旅支度はイシドールの町でがっつり整えんのがいいだろ」
「私もそれがいいと思いますよ。辺境を出たらどこへ行くかも予定を立てておいたほうがいいでしょうね。この地はいろいろ揃っていますけれど、余所ではろくに店のないところがたくさんありますから」
「それなんだけどさ……俺の生まれた村、行っていいかな? 母さんにまだ報告できてねえし、その、おまえらのことも紹介したいしさ……」
「アスファ……」
仲間達はしん、と静かになり、
「そこは『リュシーを紹介したい』ではありませんの?」
「ちょ、エルダ様!?」
「違ッ!? あのなッ!? って、ニヤついてんじゃねえよアホエルダ!! てめーこそあのオトコどうすんだよ、しばらくベタベタできねーぞ!?」
「んなッ!? べ、ベタベタなんてしてませんわよ心外ですわね!! あの破廉恥な腐れタラシ野郎が今度わたくしの行く手に現われましたら、ふっとばして消し炭にしてやるのですわッ!!」
「へぇえ~? できんのかぁ~? まんざらでもなさそーだったくせによ~?」
「どこの下劣なチンピラですの!? チンピラというよりお子様ですわね、お子様アスファッ!!」
「んだとおお!? そもそも先にてめーがなああ!?」
「ちょ、あの、二人とも」
「――ふ。幸せっていいよね……」
「はっ!?」
「し、シモン!?」
ヒートアップから一転、二人は座り直して微笑み合った。
「……えと、エルダさん。俺ちょっと、言い方悪かったかもしれないな。ゴメン、気を付けるよ」
「い、いえ、わたくしこそ、最初にからかったのがいけませんのよ、ほほほ。……ところで、アスファのお母様にお会いした後は王都に行きませんこと? わたくしのお父様、王女殿下の側近のお一人になることが決まっていらして、お母様も弟も王都の別邸にいらっしゃるはずなの。わたくしも、一度はきちんと顔を見せてさしあげねばと思いますし」
反対意見は出なかった。
翌朝、受付のイェニーやギルド長、買取窓口のモルガド爺さんにも軽く挨拶し、通りかかったトール、レスト、ミウの三人組にもしばらく不在になることを告げた。
「え~、アスファ兄ちゃん達、旅に行っちゃうの~?」
「どのくらい?」
「んー、俺とエルダの里帰りだからちょっと長くなるな。でもちゃんとこっちに戻ってくるぞ!」
「そっかぁ!」
「帰ってきたら、兄ちゃん達の見習い時代のオハナシとかいろいろ聞かせてね!」
「うぐッ!?」
「ッ!?」
「ううッ!?」
俺カッコイイぜをこじらせた命令違反の常習犯。
勘違い貴族令嬢。
気弱で卑屈な陰気のかたまり。
触れてはならない黒歴史にクリティカルヒットを食らい、彼らは胸を押さえて行動不能に陥った。
ひとり痛くもかゆくもないリュシーだけが適当に頷いてやっている。
「そうですね、憶えていましたら」
「やった、やくそくな!」
「やくそくだよ~!」
「超たのしみに待ってるね!」
「ぐうッッ……!!」
「……!!」
「――あの、あなた達ひょっとして、わかってて言っていませんか?」
◆ ◆ ◆
光王国・王女宮にて。
激務続きの合間に設けられたひとときの休息、プライベートなお茶会の席にて、フェリシタ王女と婚約者たるライナスは、微妙な顔で見つめ合っていた。
すぐ近くには筆頭侍女と側近のラ・フォルマ子爵も控えている。
「逃亡阻止、となれば、マイエノーラ様ではありませんわよね?」
「マイエノーラ殿ならば捕縛依頼になるかと」
ライナスが真面目くさった顔で頷いた。
「辺境、そして黒となればあの御方以外にはありません」
「そうですわね……」
子爵の駄目押しに溜め息をつき、フェリシタは相談役のマイエノーラに目をやった。
「うっふふふ、この毛並み素敵ですねぇ~♪」
「放せ。放しやがれ。頼むから俺を解放してくれこの外道魔女が……」
黙っていれば神秘的な精霊族の美女が、ゲッソリやつれた黒猫を抱っこし、喜色満面で愛でていた。
第一王子は未だ彼女に懸想したままで、耳を塞ぎたくなるほど恥ずかしい愛のポエムを日々垂れ流している。どのタイミングでどう絶望を思い知らせ、残る二王子にも転落の現実をどう突きつけていくか、うっとり頬を紅潮させつつ丁寧に段取りをつけているマイエノーラだった。
「おら。王女サンが何か訊きたそうだぜ? あっち見ろよあっち! 仕事しやがれ!」
「ツレない猫ちゃんですねえ。何か御用ですか? 王女様」
無礼のかたまりだが、もういちいち咎める者はいない。
「この依頼、わたくし達のところにも伝わっているということは、そういう意味だと思うのですけれど。違うかしら?」
「違わないでしょうねえ。柵で囲って閉じ込めるだけが阻止ではありませんし。ふふふ、我が殿下が本気で追い込み作戦を……愉しそうですねえ、ぞくぞくします。猫ちゃん、様子をつぶさに観察してきてくれませんか? 私も参加したいのは山々なんですが、下手にうろついたら殿下達に処刑されかねないのですよ」
「知らねーよ! 自業自得だろッ! 俺を巻き込むなあッ!」
「…………」
フェリシタとライナスと子爵は目を見交わし、頷き合った。
下手に興味を持たず、平和なひとときを享受する。それもまた方針のひとつとして、検討すべきかもしれない。
似たような頃、南の王宮で、女王ミラルカは昔馴染みの神官騎士と庭の散策を楽しんでいた。
見慣れた庭だが、この神官騎士とともに歩くのは、無言でいてもどこか心地良く、ほんのりと特別な幸福感を覚える。
女王の使用人達も、敬愛する主のご機嫌な空気を感じ取り、邪魔をせぬように遠巻きに控えていた。
「母上! ウォルド殿も申し訳ありません、お二人にご報告が」
「あらまあ、どうしたの? そのように慌てて、おまえらしくない」
「俺にも?」
「はい。実は、かの国の討伐者ギルドに、奇妙な依頼書が出回っていると……」
その内容を耳にして、ミラルカはたまらずころころと笑い、ウォルドは額に手を当てた。
(あらあら、まあまあ。……『もし柵を逃れてそちらへ行ったら報せろ』という意味なのでしょうねえ、これは。ふふふ♪)
これで南にも、逃げ場はない。
◆ ◆ ◆
(何だ……? 見張られている……? いったい何者が? まさか……)
そんなはずはない、気のせいだ。
ドーミアの町を、一人と一羽でぶらぶらしながら、妙に皮膚の表面がひりつくような感覚につきまとわれていた。
自意識過剰だ。気のせいだ。何を馬鹿な妄想に囚われている、サスペンスの主人公でもあるまいに――。
「よお、景気はどうだ?」
「今日のスープめちゃめちゃ美味いぜ!」
空腹を覚えて食事処に入った。顔見知りに声をかけられ、いつもどおりの喧騒にホッとして料理を注文した。
胃袋の容量が違うと知れ渡っており、慣れた店ではもう何も言わずとも、彼女のために半量の器へ料理を盛って出してくれる。
最近おすすめのスープは〝トン汁〟というらしい。どこからか広まったレシピで、変わった味付けだが、不思議とくせになる〝ミソ〟を使っている。好みが分かれるものの、肉体労働従事者は濃厚な味わいを好み、順調に人気を博していっているそうだ。
ほくほくのイモ、芯のないニンジン、シイタケモドキ、肉は「ぷぎー」と鳴く魔物の肉。足が二本か四本かはさておき、よくぞこれだけ完璧に再現できたものだ。スープの温かさと感動が染み渡る。残念ながら〝トーフ〟はスープの具材として好まれないが、〝ミソデンガク〟や〝トーフステーキ〟などが商人ギルドあたりで人気を獲得しつつあるようだ。
「あらぁ? セナ様ですよね? こんなとこにいていいんですかぁ? 最近セナ様の――ふぐむぐぅッ!?」
「ミュリちゃんっ!」
「しーっ!」
「…………」
瀬名は無言で立ち上がり、空になった食器を戻して背後を見ずに店から出た。
(間違いない。気のせいじゃなかった……!)
誰が。なんの目的で。
肩にとまった青い小鳥は沈黙している。
尾行はされていない。念のため魔素の流れを読むが、不審点はない――と思う。人の多い町はあらゆるエネルギーに溢れており、読みにくいのだ。
(私の計画が漏れている? 馬鹿な、そんなはずはない)
漏らしていないのに察知する奴がいるとすれば、それは――。
北門の近くにさしかかり、ふと足を止めた。そこにいたのは、出発前にひとこと声をかけておこうと思っていたバルテスローグだった。
そのローグ爺さんと、精霊王子の次男エセルディウスが、なにやら世間話に興じていた。顔なじみの討伐者も何人か加わっている。彼らを初めて目にする旅人や商人がギョッとして二度見三度見をしたり、目をこすったりしていた。
エセルディウスはお喋りを続けている。彼らがあそこにいるのはただの偶然、きっとそうだ。それでも踵を返し、早足で道を逆行した。
「…………」
南門にて、同じように立ち止まった。出発前にひとこと声をかけておこうと思ったグレンがいる。
精霊王子の末弟ノクティスウェルと、なにやら楽しげに世間話をしている。
既視感。
くるりと回れ右、早足でその場を離れた。
(何が起こっている?)
青い小鳥は沈黙を保っていた。これは本当に信頼していいのか? 誰を信じたらいい?
何食わぬ顔で門を出ればいいだろうか。変装し、気配を隠して――無意味だ。瀬名がどんな姿をしていようが、あの兄弟には確実に気取られる。様子見もおそらく悪手、いたずらに時間が過ぎるだけだろう。
いったん裏路地に入り、建物の上までのぼる。
屋根を駆けていくつかの建物を越え、地上の段差や水路をショートカットし、向かったのは〈薬貨堂・青い小鹿〉だ。周辺に怪しい魔素の流れ、見知った魔素のパターンなどもないのを確認し、路地に下りて店の前に立った。準備中の札はない。女将ゼルシカは中にいるようだ。
果たして、扉をくぐればカウンターに女将の姿があり、ほっと胸を撫でおろしていた。
「こんにちは、ゼルシカさん。ちょっといいかな? 訊きたいことがあって……」
「やあ、セナ。悪いねえ、今日はちょいと無理みたいだよ? ほら」
「え? ――うっ、わっ!?」
がし、と腹に衝撃がきて、ぐん、と持ち上げられた。視界が半回転し、再び腹に衝撃があった。痛みはない。
「無体すんじゃないよ」
「ぜ、ぜるしかさん……?」
喉奥をくっと鳴らす低い笑い声が間近で聞こえ、膝裏の腕が位置を調整し、抱え直された。
(こ、れは……片腕抱っこ、だと……?)
抱っこというより荷物担ぎだ。広い背中にふわりとけぶる金髪。その向こうで女将がひらひら手を振っている。状況説明と救助要請を訴える間もなく、無慈悲にも瀬名の目の前でドアは閉じた。
そんな、まさか。
まさか、町のすべてが――。
店を出るなり、視界がさらに急激に高くなった。体高二メートル以上ある軍馬に、人ひとり片腕で抱っこしながら、優雅に飛び乗るなど無茶苦茶である。
漆黒の毛並みと尾……。
「ブルータス、おまえもか!?」
「ヴルル?」
「舌を噛むぞ」
ぐっと口を閉じた瞬間、景色が勢いよく流れ始めた。町中で爆走するんじゃねえ、近所迷惑だろと叫ぶ間もない。
オリジナルの瀬名はゲーム内でジェットコースターなる遊具を体験したが、自分の意思と関係なく身体を振り回される感覚がどうしても駄目だった。どうやら今の瀬名もそうだったらしい。
この格好のせいで、余計に速く感じる。高い。揺れる。こわい。しがみつくしかない。――絶対に狙っているだろう、この野郎。
(何故だ、ヤナよ! おまえの主はワタシではないのか!? 何ゆえこやつに従っているのだ!?)
門を通りかかる瞬間、ローグ爺さんが瀬名に向けて「ひょほっ」と手を振った。エセルディウスも討伐者達も実にイイ笑顔で、誰も止めてくれない。なんてことだ、灰狼もいる。
日は高く、ドーミアの町の門にはとてもたくさんの人々がいた。大量に集まった稀少種族に、目を白黒させている人々。それよりも、明らかに自分を知っている人々の眼差しのほうが地味にダメージを食らう瀬名だった。
「駄目だ。もうお外に出られない。恥ずかしい。おうちに帰りたい……」
「後でちゃんと送り届けよう。その前にデートだ」
「でっ!? おまっ!? なっ!? そんっ!?」
「速度を上げるぞ?」
「ちょい待ち!! 待った、怖い、マジで怖い!! 怖いし酔うからスピードアップは勘弁願いますッ!!」
「酔う? ――ああ、もしやこの体勢が怖かったのか? わたしに怯えているかと思った、すまない」
「おい」
シェルローヴェンは腑に落ちた顔であっさりと頷き、瀬名を抱え直した。まるめた絨毯を肩に担ぐ荷物抱っこから、背景に大輪の花が咲く横乗り抱っこに変更である。
「こちらのほうが安心できるだろう」
「……あの、シェルローさんや? これ、さっきのより恥ずか」
「少々急ぐ」
聞けよ!? と叫ぶ間もない。町中では本当にゆっくりだったんですよと証明するかのごとく、魔馬の本領発揮のスピードに瀬名はびびった。魔馬自身の魔力で風圧は軽減されているが、瀬名単独でヤナを走らせている時よりも格段に早い。乗り手の技量の差が明白に出た瞬間だった。
岩を飛び越え、急傾斜を駆け上がり、駆け下り、瀬名が走らせている時はまず行かないような場所をどんどん越えてゆく。瀬名は魔馬にこれほどのポテンシャルがあると知らず、普通の馬のイメージで平地ばかり駆けさせていた。目からウロコ、ショックの連続である。
≪ひいい~ッ!? ジェットコースターぁああぁああ~ッ!? へんな重力が、浮遊感がああああ~っっ!?≫
≪騎士でもこれは無理でしょうね、まず落馬します。マスターは屋根の上を平気で飛べる胆力と運動能力の持ち主ですから、まさかこれを怖がるとシェルローは思っていなかったようですね≫
小鳥が冷静に分析した。なるほど、だから先ほどの返しにくい「すまない」に繋がるのか。日頃の会話と認識のすり合わせって大事だなと瀬名は思った。ところで分析はいいから止めてくれないだろうか。
そこそこ大きな亀裂をひとっ飛びで越え、大樹の根の上を危うげなく走り――そのうち傾斜した幹や太い枝の上をひょいひょい登り始めた。
あれ、おかしいな? 馬って木に登る生き物だったっけ? 軽くパニックになった。
(ヤナの主……私だよ、ね……?)
いつしか揺れはおさまっていた。目的地に到着したからだ。樹齢何千年か何万年ほどもありそうな大樹の、ほぼてっぺんの枝の上である。
気付けばずっと身体をまるめ、シェルローヴェンの服をつかみ、必死で握りしめていた。これを掴んでいなければ落ちると本気で信じた。同時に、しっかり腰を抱き寄せてくれている腕の強さの頼もしさも感じ、この腕は絶対に自分を落としはしないとも信じていた。
どう考えても吊り橋効果である。
胸の高鳴りは純粋なトキメキなのか、超高速ダイナミック乗馬が怖かったせいか、どちらだ。そして現時点でもガクブルドキドキしている。絶対に下を見てはいけない、頼むからこの腕をほどかないでくれ――……エンドレス。
北方からひんやり冷えた風が入り込み、地上から離れた場所では日が高くとも気温が低い。寒さに弱く緊張しかけた身体を、心得たように両腕で包み込まれた。ぬくぬくぽかぽか、温泉のようだ。
「この野郎、この野郎、この野郎……癖になったらどうしてくれるちくしょう……」
「そうなるようにやっている。逃亡計画など練るから悪い」
「ほんのちょっとお出かけ計画を立ててただけさ!? ARKさんにしか相談してないのに何故バレた!?」
《名誉のために申し上げますが、私は漏洩元ではありませんよ。この男は自前の勘で察知しました》
「お出かけ計画か。我々を置いて?」
「いやそのなんだ、最近ちょっと頭がオーバーヒート気味なもんで、冷却したら早めに戻るつもりだったようん、あの顔が近いな!? 助けて小鳥さん!!」
《シェルロー。お触りはほどほどにしなさい》
青年の肩にとまった小鳥は、助ける気があるのかないのか微妙な台詞を淡々とさえずった。
「おまえに止められる筋合いはないぞ。おまえは朝から晩までベッタリではないか」
《当然です。おはようございますからおやすみなさいませはもちろん就寝中も二十四時間、この世で最もマスターを熟知しているのはこの私です》
「えと、キミたち、実は仲がいいよね……?」
瀬名のライフは最早しょぼしょぼ、口から何かがフゥーと抜けかけている。
シェルローヴェンは干からびかけた腕をぽんぽんと叩いた。
「あちらを見てくれ」
「はいな~……? …………」
空が広い。
天頂から陽は西へ傾いて、黄金に輝く雲が流れている。
連なる山々。丘陵地帯。わずかな平地。向こうには黎明の森があり、向こうにはドーミアの城壁がある。
小川があり、街道があり、小さな胡麻粒のように続くあれは、行商の荷馬車と護衛だろうか。
スクリーン越しに眺める映像とは比較にもならない。胸を打つ、胸に迫る、これをどう表現したらいいのだろう。
緑の匂いと土の匂いと澄んだ大気の匂い。冷えた風を頬に感じながら、四肢の先端まで血が通い、熱が全身をめぐるこの感覚。
鼓動と温もりがすぐ傍にあり、今まさに自分達はここにいて、箱の中でも枠の中でもない、この世界に生きていると実感する。
「ここには来たことがなかったろう?」
「……うん」
こうして見れば、ドーミア城は本当に攻めにくい地形に建っている。自分がもし兵を展開するとすれば……などとムードのムもない感想が生えかけたが、危険思想はしばし封印だ。
うっかり口走っても、面白がってノってきそうな男ではあるが。
時とともに気温はどんどん下がる。シェルローヴェンが小さく呟き、燐光が周りを包んだ。太陽の欠片をまぶしたようで、温かく、とても綺麗だ。
「寒くないか?」
「うん。あったかい……――ってうわあ、定番のやりとりをかましてしまったよ! 誰だオマエ! 私か!」
瀬名は頭を抱え込み、青年は笑い声をあげた。
◆ ◆ ◆
(あら……ふふ。ちゃんと捕まえたようね?)
黄金の斜陽にとけこみ、淡く輝く精霊族の一団の中、最も大切に守られた女王の唇に、うっすらと微笑みが浮かんだ。
遥か遠い大樹の上に、彼女のよく知る気配がある。光を強めたその気配の中に、もうひとつ別の気配を感じた。
【陛下。あれは】
【ええ、そうでしょうね。……一瞬だけわたくしの前に現われて、そして消えてしまった。あの時はとてもびっくりしたけれど、彼女はわたくしのことを憶えているかしら?】
息子や夫から聞くばかりで、直に本人と話せていない。
仕返しに驚かせてあげよう。とても楽しみだわ。
女王は美しくも無邪気な少女のように微笑んだ。
数刻ののち、叡智の森の女王に「来ちゃった♪」をかまされた黎明の森の主は、呆然と呟いた。
――これは孔明の罠だ。
ご来訪、評価、ブックマーク、感想、本当にありがとうございました。
思えば投稿開始直後、四苦八苦しながらも勢いで進めていた記憶があります。見落としもあり、誤字脱字報告師様には随分助けていただきました。
いただいた感想をもとに番外や幕間を途中で書けたらよかった、と後半になって気付いた未熟者です…。あとキャラが多いですね!諸事情で設定変わって全く活躍できなかった人もいますし、無駄に多いのよくないと自分でも思いました。力不足としか言いようがありません。
しかし、こんなに長くなると思っていなかったものの、絶対にラストまで書くぞと決めており、目標を達成できて嬉しいような信じられないような気分です。
見に来てくださる方々が励みになり、続けることができました。
心から感謝いたします。
 




