296話 なり損ないとの対峙
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急激に強い力で引っ張られた。死角から見えない網をかけられ、強引に掬いあげられる。
映像はまだ続いていたにもかかわらず、何者かが強制的に中断させた――瀬名とシェルローヴェンは直感し、互いを掴む手や腕に力をこめた。
今度こそ二人それぞれ、別の場所に飛ばすつもりか?
だがすぐにその意図はないと知れた。
不可視の膜を通り抜けた感触を残し、別の場所に移って、そのまま二人とも同じ方向へ移動させられている。
引き離す気はないのだ。
目的の場所へ一瞬で転移するのではなく、どこかの空間を浮遊しながら引っ張られていく。
途中、周りが完全な黒に塗り潰され、視界に映るものは何もないはずなのに、何故か深淵のさらなる底が見えた。
すべての光が吸収され、魔素も魔力も魂もただ落ちて行くしかない完全なる闇が、遥か底のほうにあった。
(いる)
(あそこに)
どうしてそう思ったのか、理由は説明しようがない。
気配はなかった。威圧感も恐怖もない。
けれど確かに――最も深いところにひっそりと沈んで微睡む、形容し難い、この世界の理ですら及ばない存在が確かにそこにあった。
互いの身体がやや強張り、自分達が視たのは同じものだと確信する。
おそらくは途方もないそれに、しかし二人の中に怯えや忌避感といったものは、不思議と芽生えなかった。
それはただ本当に、何も刺激しなければただ居るだけ、微睡んでいるだけだったからだ。
これから何をどうするのでも、どうしたいという野望や本能があるのでもない。
そもそも、こちらのことを認識すらしていない。
異常な空間で奇妙な幻をひたすら見せ続けられ、疲弊した二人の恐怖感がマヒしているだけかもしれないが。
(もしかしたら、まともに感じ取ると自分の容量をあっさり超えて発狂する恐れがあるから、無意識のガードが働いている的なやつだったりして)
結局は実害がないのだし、要するに無害でいいかな? と瀬名は首をひねるが、断定は避けておこうと結論づけた。
(すぐ間近へ飛ばされてたら、さすがにパニクったかもしんないけど)
(近いようで、まだかなり遠かったのだな……行こうと思っても、行けそうにない場所だ)
むろん二人とも、あれとお近付きになりたいとは決して思わない。
時間にして数秒ほどか数分なのか、ただ流れに身を委ね、息を潜めてそれの上を通り過ぎた。
その間、それは小さな二人に〝眼〟を向けることも、〝手〟を伸ばすこともなかった。
◆ ◆ ◆
一方、アスファ達は油断なく、自分達の前に現われたその男の様子を窺っていた。
――魔王になり損ねた魔王。
さながら、泥濘が人型をとって徘徊する【泥人形】だ。地面からドロドロ湧いて、べちゃり、ずるりと蠢きながら、しきりと何かを呻いている。
生気のない黒い瞳は何も映さず、ただ彷徨っている。
『うう……あ……あ……』
無残なものだった。けれど哀れみは湧かない。
実際に魔王として完成していれば、これはお遊びで世界中に災禍を撒き散らしていたのだ。
その遊戯がどれほど無慈悲で残虐であったか、リアルな例の数々を目にしてしまった以上、元皇子の魔物を誰一人憐れむ気にはならなかった。
あれはただの幻だった。何ひとつ現実には起こっていない。
けれどあれは〝限りなくそうなるはずだった未来〟のひとつだ。そんな確信が誰の胸にもあった。
そしてあの幻通りの〝未来〟を、もしその通りになぞっていたら……。
(――俺が、こいつみたくなってたんだろうな)
アスファは直感で思った。
あの中途半端な勇者になっていたら、アスファのほうこそがこの場所に沈み、精神も魂もすり減って消滅する日まで、永遠にずるずる徘徊していただろう。
正義を妄信し、たくさんの犠牲を仲間達や大勢の人々に強いて、その犠牲を正当化するばかりだった。
それは、この魔王のなり損ないと方向性が違うだけの、立派な災厄ではないか。
【……否定は 難しい】
「――あっ!? 剣が戻ってる!?」
どこか気まずそうに応えがあり、ついアスファは叫んだ。
剣はいつの間にか腰に戻っていた。あの幻の〝勇者アスファ〟や、身分の高い方々が好みそうな剣ではない。
すっきりとシンプルで無駄のない、いっそう強靭さを増した剣だ。
「おっ、俺の剣も戻ってやがる?」
「俺のもだ」
「儂の斧も戻っとるぞい」
「……でも、荷物は戻ってませんね。兄様、これは……」
「ああ。――お膳立てか」
「…………おい。どーゆーことだよおまえ? 急に消えたと思ったらコレって酷くね?」
アスファが神剣へ低くうなった。
すると、これでもかと申し訳なさそうな感情が伝わってくる。
【不本意だ …… 我も すべてを把握は できておらぬ】
あの光景について、【エル・ファートゥス】は直接関わったわけではないようだ。
むしろこの神剣がアスファに送ってくる感情を例えるなら――そう。アスファのうっかり発言に、エルダやリュシーやシモンが、「うちのアスファがすみません……」と目で訴えているアレだった。
うちの身内が、自分の知り合いが、もうほんとすいません……と平謝り。そんな気配が伝わってくる。
訊きたいことはたっぷりあるけれど、問い詰めたら可哀想な気がしてくるアスファだった。
「アスファよぃ? 剣は何ちぅとる?」
「あー、ごめん。こいつのせいじゃなくて、なんか別の誰かがコレ仕組んだみたいなこと言ってる」
「【エレシュ】も予期していなかったそうだ。……別の方々、らしい」
「おい。別の方々、ってよ……」
グレンが半眼で言いかけた時、【泥人形】の動きが変わった。
ようやく闖入者に気付いたのか、彼らのほうに顔を向けたのだ。
『ぅ……あ…………我が、我こそが……何ゆえ、我が、このような……』
なりそこないが呻き、内容が少しずつ明瞭な言葉になる。
『全土を支配し……奴隷を増やして……裂き、燃やし、砕き、穢し、壊し、たっぷり、遊べる、はず……なのに……何ゆえ、何ゆえ我は、ここに……』
「…………」
全員が同時に舌打ちするという一種の奇蹟が起こった。
種族も立場も違うけれど、皆の心はひとつである。
勇者たる少年がカースト最下位であったり、仲間の結束ではなくお仲間の結託と呼んだほうがしっくりきそうなオカシイ点が多々あるものの、共通の敵に対して心が纏まっているのだ。良いことに違いない。
この皇子が瀬名に倒された時点では、まだ完全なる魔王にはなっていなかった。しかし血みどろの計画を実行に移すための準備を進め、世界を手中におさめた後で徹底的に破壊する日を、わくわく楽しみにしていたのだ。そして説得は通じない。
己の快楽が何にも勝る――そんな妖精族が核となって生まれた魔物は、人の形をしていても、精神構造が人とまったく異なっている。
人型の魔王はその点で厄介だ。
魔王でも何でもない者を、それと思い込んで追い詰める人々の狂気も厄介だが、危険性を見誤って擁護する善人が出てくるともっと厄介なことになる。
そもそもイルハーナムのナヴィル皇子は昔、幼稚な残虐性で知れ渡っていた。遊びたい、面白い、愉しい、そんな理由で虐殺を行っていたのだ。
もし光王国であれば、王族といえど幽閉処置や王家の籍から抹消するほど異常な、血みどろの逸話が大量にあった。
一般人であれば狂人扱いか、即座に投獄されて死罪が確定するレベルである。
そうならなかったのは〝皇子〟だから。皇族は絶対であり、どんなに恐ろしく血まみれであろうと、敬い、護らねばならなかった。皇族にとっても臣民にとってもそれは当然のことであり、長い歴史の中ですっかり定着して、疑問を抱く者のほうが「頭がおかしい」と言われるほどだった。
人が既に魔王のごとき凄惨な統治を行っていた国では、いつの間にかそれが〝本物〟にすり替わっていても、誰も違和感を覚えようがなかった。
逆に我が儘な幼児の癇癪がおさまったように見えて、「殿下も大人になられて、多少は落ち着かれたか……」と安堵とともに囁く者すらいた。
そんな周囲の反応なども、この魔物には愉快だったろう。
『苦しい……うう……おかしい、我は、……我は……』
『うぁあ~……! くそぉぉ~……! ゆるさぬ、ゆるさぬぞおお……我は、我を、誰だと思うておるのだあああっ……!』
【泥人形】の足もとから、もうひとつゾロリと小さめの塊が出てきた。
父である皇帝に、魔王の器として売り渡された本物のナヴィル皇子だ。
子供特有の甲高い声で、怒りと苦痛をさんざんに吐き散らし始めた。
「聞いちゃいたけど、なんかこいつも腹立つな?」
「な? すげえイラっとくるだろ」
アスファの感想に、グレンが半眼で同意した。
魔王が成長するまでは別の場所に隠され、不死性を保つために閉じ込められ続けていた少年。幻の中で魔王が完成する際には、吸収されて同化させられていた。
だが断じて〝悲劇の皇子〟ではない。遊びで私兵をけしかけ、罪なき臣民の村や他部族を襲撃させ、リュシエラの故郷を全滅させたのは、魔王ではなくこの坊やだったのだから。
そしてそれほどの真似を何度もしでかしながら、一度も罪には問われなかった。
腐りきった皇族の皇子として生まれなければ、別の育ち方をしていれば、そうならなかったかもしれない――それこそ、起こり得なかった仮定の話でしかない。
現実としてこの坊やはそこに生まれ、狂気じみた残虐性ばかりがすくすく育ち、誠意ある叱責に拷問で応える小さな怪物に成長した。
囚われてからも反省はなく、恨みつらみばかりを腹の中に飼い続け、魂は綺麗に穢れ切ってしまった。
【ナヴィル皇子】同士が半分融合した形で、ゆらゆらと二つの頭を揺らし、侵入者へうつろな眼窩を向けていた。
半端にまざり合う奇妙な怪物。
『我が……我こそが……我こそが世の愉しみを、すべてを、この手に……!』
『我が、我こそが、我が一番、一番偉いのだぁ……! 平伏せ、崇めよ、愚民どもがぁあぁ……!』
「……ハッ。そっくりですね、このお二人さん」
ノクティスウェルが吐き捨てた。
精霊王子の三兄弟は真面目に王子をやっているので、なおさらこの【ナヴィル皇子】が癇に障るのだった。
(お膳立てかぁ……誰が仕組んでんのか知らねーけどよ)
――わざわざここまでご招待して、武器だけ返却してくれて。
――さあ戦え、と。
遊ばれているのか、試されているのか、どちらにせよ気分のいいものではない。
もし瀬名がここにいたら、無表情で怒り狂っていたのではないかとアスファは思う。それに精霊王子の三兄弟が乗っかって、エライことになりそうだ。
けれどアスファは、あの腹立たしい魔物を前にして、思いのほか好戦的な気分になっている自分にも気付いていた。
実現すれば、これはアスファを勇者とする一行の、魔王との――正確にはなり損ないとしても――初戦闘となる。
(でも、なんでかな……こいつ全然、怖くねえわ)
なり損ないの、残滓に過ぎないからか?
だがアスファはあの幻を見ながら、ずっと感じていたことがある。
もしかして今の俺、あの俺モドキ勇者よか強そうじゃね? と。
うぬぼれではなく、お年頃の少年の虚勢でもなかった。
――幻のアスファ青年は、神剣【エル・ファートゥス】と、最期までただの一度も会話出来なかったのだから。




