289話 瀬名と、もう一人
いつも来てくださる方、初めて来られる方もありがとうございます。
数百メートル上にある空は毎日代わり映えがない。
朝には白み、昼は青、夕刻には黄金から燃え盛る赤に変わり、夜は群青から黒へと、その時間帯に相応しい色へ変化する。
入道雲。うろこ雲。季節に応じた雲の形。星空や満月。天の川。昔は大企業の広告を表示させていたこともあったらしいが、天井の高さを意識させるな、目障りだ、景観を損ねると苦情が殺到してやめたそうだ。
七夕、お月見、花火ショー等の夜は必ず晴れ。雨も風も雪もなく、天候に起因する自然災害は発生しない。すべてが計算され尽くし、安全に、心穏やかに過ごせるよう管理されていた世界。
すべてが完成され、何もかもを完璧に。少なくとも、それが最低レベルに設定されていた世界。
だって、そうでなければ……。
「…………」
「…………」
震えは小刻みに始まり、やがて全身を巡った。
――恐怖。
この感覚はいつ以来だろう。
まだ己の能力の限界を知らなかった頃、あの【大蛇】の口の中にバクリとやられた日以来か。
(…………アハハハ。……やっべぇわ。何コレ。歯の根があわなーい。やだーん。うそーん)
整然と高層ビルが立ち並び、透明な中空回廊の中を大勢の人々が行き交っている。まるで小さな蟻の群れだ。スカートの中身を覗けないよう、床の部分だけ盗撮防止の加工が施されている。
公共交通機関に遅れは生じない。全席指定シートになっており、立ちっぱなし・すし詰め状態の通勤ラッシュは遠い過去だ。だた歩いているだけでもAIの監視によって簡易的なヘルスチェックが行われ、地域のメディカルセンターへ自動的に情報が送られる。監視カメラやマイク、生体センサーの存在しない場所はなく、誰もがそれに慣れ切っていた。
等間隔に植えられた木はほとんど葉を落とさない。枝が伸び過ぎず、根を張り過ぎず、鳥の一羽、虫の一匹も住んでいない。植木の手入れや街路の清掃の手間を省くため、最初からそう作られている。風も雨もなく、外部からの刺激がなければピクリとも動かないそれらは、遠目にはまるで玩具の模型。
立体、平面を問わず、どこかで流れる企業の広告。たまにニュース。
――外の気温は百℃に達したらしい。どこかの環境保護団体の入手した極秘映像が、その日もまた流れていた。荒れに荒れた海は変色し、竜巻がそれを吸い上げている。迫力のあるいい見ものだが、何度も同じ瞬間ばかり繰り返すので段々飽きてくる。
視聴者のコメントがすぐ下にリアルタイムで流れていた――環境より人類を保護したほうがいいと思います。同じの先週も映ってなかった? ――誰も本気でとりあわない。もう慣れっこだ。現実感などあるわけもない。これを狙って何度も何度も同じところばかり流していたのかもしれない。
隣ではリニューアルしたスキンケアシリーズのCMが流れていた。棒読みアイドルの起用に対する苦情のほうが盛り上がっている。
「…………」
ぎゅ、と手を握られ、びくりと身体が跳ねた。
いや、そうではない。手はずっと握っていたのだ。
だから彼もここにいる。
けれど瀬名は大きく息を吸い込み、瞼をきつく閉じて、己の横に目を向けることができなかった。
正体不明の恐怖が喉の奥で塊となり、吐き出す息さえも震えているのを感じた。
どうして。
何故。
よりによって――こいつがいるのに。
いいや、そうではない。
もしも振り返って、こいつがいなくなったら。消えてしまったら。
最初からどこにも存在しなかったかのように。
何もかも一切が夢であったのだと、思い知らせるようにパッと消えてしまったら。
ここに自分以外の誰かを連れて来てしまったのが怖い。
自分ひとりだけでここに放り出されるのが怖い。
どうして。
よりによって、こんな形で……!
「瀬名!」
「!」
顎を掴まれ、強引に振り向かされた。その拍子につい瞼が開いてしまう。
怒りと心配を同時に湛えた翠の双眸が、強い輝きを放ってこちらを見下ろしていた。
――ああ。
よかった。
消えない……。
消えないのか。
「瀬名。息をしろ!」
「……!」
息?
ああ、そうだった。震えながら吐いた後で、もう一度吸うのを忘れていた。呼吸の仕方を忘れるって実際にあるんだな。
きつく言われるがままに、吸って、吐いて。それだけの単純な繰り返しに、随分と気力、それから腹筋の力を使った。
何度か瞬きをした後になって、瞼を閉じて開き直しても、やっぱり目の前の男は消えないのだと実感できた。
ようやく瀬名が落ち着いたからか、青年――シェルローヴェンもホッと小さく息をつく。
「……ええと。ご迷惑をおかけしました? お見苦しいところをお見せしました?」
「それはどうでもいい。……焦ったぞ」
「……ご心配オカケシマシタ」
と言うしかない。
それにしても……ここは何なのか?
(声が微妙に反響してる。現実じゃあないよね?)
未だ速く音を刻む鼓動を感じながら、周囲を見渡す余裕だけはかろうじて戻った。
記憶を反映した幻惑の魔術? それとも精神だけで夢へダイブさせられた?
いずれにせよとてつもない大問題だ。――瀬名の記憶なり夢世界なりを、今この瞬間、シェルローヴェンまでが一緒に目撃しているのだから。
(……ばっちりしっかり、見られちゃったもんはしょうがないし。いい機会だったってあきらめるしかないかな? アハハハ~)
もう泣きたい。瀬名は冗談抜きで涙目になった。
そんな瀬名を、シェルローヴェンは困惑と心配の面持ちで見下ろしている。人類最長の歴史を誇る精霊族でさえ、かつて見たことも聞いたこともない驚愕の光景が目の前にあり、当初は彼自身も呼吸を忘れかけていたのだ。が、瀬名から伝わる感情の激しい揺れに気を取られ、それどころではなくなった。
――これこそが、きっと、彼女の隠し続けてきたものなのだ。
そして自分という異分子が、思いがけず無遠慮に踏み込んでしまった。
(……あれは、建物なのか?)
きっとそうなのだろうと推測するしかない。が、どんな技術であれらを建造してのけたのか、まるで想像もつかない。
彼の常識と知識の中に、目の前のそれらと比較できるものはほとんどなかった。不自然なほど高さも大きさも幅も揃えられた細い街路樹。ずっと向こうまで続く人、人、人の群れ。――どこまでも人族しかいない。
(何だろう、空が……どこか、おかしい……?)
違和感に内心で首を傾げる。どこもおかしいところのない空なのに、「空」と呼ぶことに何故か抵抗を感じてしまう。――それは実際には〝天井〟であり、無意識に人工物の覆いがあることを感じ取ったからなのだが、まだ彼には知りようがなかった。
それよりも、信じられないぐらい高所にある恐ろしく透明な道へ意識をとられる。あの道は、もしや硝子なのか。あれだけ長大な硝子にあれだけ大勢の体重を載せて、何故割れない? 見えないだけで高度な魔術式を組み込んであるのか? それとも違う物質を使っている?
見たこともない奇抜な衣装。吃驚するほど足を出している女性。
かと思えば男性風の衣装を纏っている女性。顔にかけている黒硝子は何だろうか。
あちらは女性風の衣装を纏っているが、骨格は男だ。男女が反対の性別の衣装を纏い、時に顔立ちで明白な者もいるのに、誰もさして気に留めている様子ではない。
武器や防具を装着した者はひとりも見当たらなかった。奇妙な乗り物らしきものは、魔馬も雪足鳥もいないのに勝手に動いている。向こうの建物では、人が前に立った瞬間、ドアが左右に自動で開いていた。あれは以前にも、瀬名の〝真珠の城〟の中で見たことがある。仕組みはまるで理解できない。
そこにいないのに、まるで存在しているかのように映し出される映像。あれはアークも得意としていた〝もにたー〟や〝ほろぐらふ〟とやらではないか? 流れる声、表示される文字、そのいずれもがシェルローヴェンの知識にはない。
けれどひとつだけ、引っかかる記憶があった。
(あの時の言葉だ。わたし達の呪いが解呪されていなかった頃、瀬名が囁いていた不思議な言葉)
間違いない。何を話しているのかはさっぱりだが、息継ぎや発音の傾向が同じだ。
それにあの、たった一文字に大量の線を使う複雑怪奇な文字。
(これは、――ここは、瀬名の……)
だが、どう尋ねればいいのか。それともやはり、何も触れないでおくべきか。
逡巡する青年の隣で、瀬名が諦念に満ちた声色で「くすり」と笑った。
「これがどういう現象なのかわかんないけど、犯人、どう考えてもあの光だよね? 何か刺激する要素でもあったかな?」
「それは……わたし達は何もしていない。多分、あちらの面子で何かがあったのだろうと思う。我々は合流しようとしていたのだから、弟達もあの光に遭遇していておかしくはない」
「ああ……つうとあれかな、アスファ達の誰かがあの光を触るか何かして、連動しちゃったとか?」
「危険性を何ら感じなかったとはいえ、好んで触れようとはしなかったろう。はずみで触れてしまったのやもしれん」
「……これは夢の中かな? それとも幻術を見せられてるだけと思う? 幻を見てる間に、身体がフラフラ危険な行動を取ってたりとか、敵が接近してるのに気付けなかったりとかあるかな」
「そういう罠の類ではない。わたしの印象としては、加護持ちが最初に【神】からの接触を受けた時の話に近いと感じる」
「加護持ちの?」
「記録に残っている話と、ウォルドから聞いた話もそうだ。彼らはまず強烈な光に呑まれ、説明し難い多くの情報が流れ込んできたという。目覚めた時には、たいして時間が経っていないのだとか」
「……凝縮された時間の中、頭に情報を送りこまれている?」
それならば瀬名には理解しやすい現象だ。が、シェルローヴェンは逆に困惑を深め、半信半疑の様子だった。前提とする知識に差があるせいだろう。
(そうだとすれば、これはどんな情報かって話なんだけど……)
そして、こんなものを見せる目的は何なのか。もし瀬名達が、もとからそこにある何らかの〝システム〟に触れただけならば、目的自体が存在しない可能性もある。
――それ以前にこの世界の神様は、瀬名がどこから来た何者かをどこまで把握しているのだろう?
もしや興味を持ったいずれかの神様が、瀬名の頭を刺激して記憶を読み漁ろうとしている?
しかしそういう、引っ掻き回されている不快感はなかった。それとも神の力とやらで不快感を抑制されているだけだろうか。
あれこれ考えていると、突如、さぁ、と場面が変わった。
「ここは?」
「――……」
白い無機質な部屋。様々な機械。
瀬名はこの場所をよく憶えている。
楕円形の、パールホワイトの医療ポッド。寝そべる人物の上半身が隠れ、下半身は丸見えだ。
(ちょ、っっっっっっとおおおおぉ?)
瀬名は繋いでいないほうの手で額を押さえた。
もうどうしてくれよう。
神よ。これはあんまりデス!
この男に、よりによって、シェルローヴェンにこれを見せるか!?
「瀬名?」
「シェルロー君。いいかい、よく胸に刻んでおきたまえ。――これは夢だ。夢なんだよ。わかったね?」
「……ああ。あなたがそう言うなら」
決して逆らってはならない気配を察知し、青年は頷いた。
その時、ふおん、と音がした。シェルローヴェンもそれに気付いたようだ。
彼はハッと目を瞠る。三兄弟が幼児になっていた頃、〈スフィア〉で呪いの影響の分析を試みるために、似たタイプの医療ポッドを使ったのだ。
そこに誰かが横たわっている。――やたらレースの豪華なショーツ。
あらわになった足のラインは、明らかに妙齢の女性のものだ。
「うふふ……ウフフフフ……」
「せ、瀬名?」
「――ムダ毛処理しててよかった!! 『どうせ機械しか見てないんだし』とか怠けなくて良かった!! 超セェエェフ!! でも、でもでもでもさ!?」
微妙にふっくらとした足の裏の厚み。
微妙にたるんだふくらはぎ。
ぽよん、ぺちょんとやる気のない音がしそうな、伸びた餅のごとき太腿のおにく……。
ポッドの蓋がゆっくりと開いた。ややして、のっそりと起き上がった女性。
寝ころんでいたせいで少しボサついている黒髪。ブラジャーはつけておらず、控えめなふくらみを長い髪が流れて隠している。
シェルローヴェンは目を瞠った。あらわになった胸もとより、顔立ちのほうに意識が集中しているのだ。
二十代半ばぐらいの人族――いや、もし〝この女性〟も童顔なのだとすれば――しかし、この顔は――。
結論が浮かぶ前に瀬名が叫んだ。
「なんっっっっでオマエは、もっと気合入れて、ダイエットしとかなかったんだぁぁああぁあッッ!!」
起き上がった瞬間、たゆん、と揺れる、お腹周りのおにくよ……。
とうとう瀬名の過去が徐々に…。
そして気にするのはそこなのか。




