285話 飛ばされたもう一方
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薄汚れた灰色の石壁に囲まれ、そこらじゅうにゴミや汚物が転がっている――それがずっと抱いていた裏路地のイメージだった。
けれど、そこは明るい象牙色の建物に挟まれ、異国情緒溢れる美しい世界だった。
建材は何を使われているのか、壁面は温かみのある肌色の石造り。頭上から射し込む陽光に照らされ、思いのほか明るく美しい。
時おり階段状になっているため、馬車は通れない。慣れた地元民ぐらいしか使わない入り組んだ道。
人々は大通りの賑わいに引き寄せられ、近辺にはまるで気配がない。
眼下で、口を押さえられた娘達が、悲鳴をあげる間もなく複数の男に引きずり込まれていた。
あそこに〝敵〟がいる。
ふと、肩の上をすうと通り抜けた違和感に首を傾げた。
「……?」
なんだったろう。何かを思い出しかけて、触れようとした瞬間にそれは消え去ってしまった。
――まあいい。やることは変わらない。
ゆるりと魔導刀を鞘から抜いた。初めての実戦、のはずなのだが、妙にしっくりくるのは何故だろう?
それはまるで己の身体の一部のごとく、まったく違和感もなく馴染んだ。
握りの部分は同じ温度で手の平に馴染み、思考能力など備えていないはずなのに、まるで――のように呼べば応えてくれる感じがする。
……何のように?
例えが思いつかなかった。
……まあいい。
呼べば応えてくれる、それは決して錯覚ではなかった。己の精神波に呼応し、見えるか見えないかの微細な超高速の振動が生じて、刀身の表面に陽炎が生じた。
その剣が周辺の魔素を吸収し、速やかに必要なエネルギー、すなわち魔力へ変換するさまを、誰よりも近くで感じ取る。
柄の紋様、暗いえんじ色だった部分が鮮やかに発光した。ゆるく反った刀身に、ゆらめく黄金の紋様が浮かびあがり、柄や鞘に施されていた鈍い金色の装飾模様にその輝きが反射する。
危険な美しさ。その凄まじい強度と切れ味をもって、主以外のすべてを切断するために生まれた存在。
高濃度の魔力が刀剣内部のみで循環し、大気中に分散される量はごくわずかだ。それでも長時間使い続ければ、勘の良い者には気取られるだろう。
速やかに片をつけなければ。
垂直に立つ壁の上から、あの〝敵〟をめがけて――
「瀬名!」
「!」
背後からがし、と腕を掴まれた。
「……だ、…………あれ、シェルロー?」
「どうした、どこかに痛みでもあるのか? それとも気分が悪いか?」
「…………え?」
瀬名はぱちぱちと瞬きして、そして周囲の様子に目を瞠った。
「え? ――ええ? 何ここ、どこよ?」
「わからんが、いきなり倒れそうになって驚いたぞ。体調はどうだ?」
「いや、体調は……全然、何ともないけど」
異国情緒溢れる裏路地の建物の上、ではなかった。
ごつごつした岩肌の洞窟。月輝石の仄青い燐光とは違い、紫や橙色、緑や赤や黄色が混ざりきらずに混ざりあい、けぶるように岩肌を覆っている。
時おり針であけた穴から陽光がちらつくかのごとく、小さな白光が散りばめられていた。
ずっと奥は暗く、松明も陽輝石の灯りもないのに、自分達の周りだけが奇妙に明るい。
「……私、倒れそうになってた?」
「ああ。自覚がないのか?」
気遣わしげな青年の声に、瀬名は顎に手を当てた。
なるほど。そういうことか。
すなわち、これは。
「古典的な精神攻撃に嵌めてくれやがって、あんの野郎……!!」
「精神攻撃? ――まさか幻を見せられていたのか? 瀬名が?」
シェルローヴェンは驚愕を隠さなかった。
さもあらん。瀬名にそんなものは効かないと彼は信じていたのだから。それだけの実績もあった。
瀬名自身、自分にそんなものは効かないと思っていた。薬物を盛られれば一時的に混乱することもあろうが、幻惑魔術のたぐいは間違いなく効果がない。精神力の強度だけでなく、頭の中に入っている〈グリモア〉――魔素を感知し操作できる――が常時、そういうものが届く前に無効化してしまうのだ。これは瀬名が意図しての働きではなく、防衛本能が仕事をした結果である。
それが突破されたのだから、尋常でない何かが起こったのだ。
瀬名は改めて足もとを確認した。
道幅は二メートル程あろうか。場所によっては一メートル程度しかない。
その一本道の両脇は、どこまで下に続いているかも不明な、果てなき闇が続いている。
洞窟の壁は十メートル……いや、もっと遠くにある。距離感が掴みにくいが、瀬名やシェルローヴェンの跳躍力でも届く距離にはない。
要するに二人は今、落下したら普通は助からない、細い細い道の上に立っているわけである。
ギリギリ通過できる道だけを残して地面が崩落した、そのような場所であった。
(これ、あのまま転んでたら……ってやつだよな)
転倒して顔面強打ならまだしも、底に何があるかも不明な深淵に吸い込まれていた展開だ。
「っ……そうだ、うちの小鳥氏は!?」
「わたしがここに来た時から、もういなかった」
「……!」
小鳥がいない。あの小鳥が?
≪ARKさん、聞こえる!? 今どこ!?≫
用事があって少々離れております、あのあたりまで偵察をしてまして――等々、そんな反応を期待したが、いくら待っても応答の気配すらなかった。
どころか、念話で呼びかけたせいで余計に実感してしまった。――ここにあの小鳥は来ていないのだと。
瀬名とシェルローヴェンは、ARK氏の感知能力の及ばないどこかに飛ばされてしまったのだ。二人だけでなく、全員がどこかに飛ばされた恐れもある。
皆がバラバラに転移させられるパターンは、無ければいいと思いつつ想定だけはしていた。けれど瀬名は、小鳥が自分の傍からいなくなるパターンだけ頭から抜けていたのに気付き、己の迂闊さに歯をきしませた。
シェルローヴェンも顔色を悪くしている。彼も、普段は当たり前に感じていた弟達との繋がりが唐突に途切れてしまったのだ。
いきなり全体攻撃を食らって、自分達以外の全員が命を落としたとは思いたくない。
(……あいつ、マジでいないのか)
瀬名は本当の意味でARK・Ⅲからはぐれたことなどなかった。瀬名の周辺には、常にあの小鳥の〝目〟があった。
一時的に別行動を取っていた時も、あちらからは瀬名の位置を把握できていた。
けれど今は、その限りではない。ARK・Ⅲでさえ、瀬名が今どこにいるのか捜しようがないかもしれなかった。
足もとが消えそうな錯覚に襲われかけ、軽く頬をぱしんと叩いた。
(ハイハイそれは後、後! 不安だなー、わぁどうしようー、じゃあ建設的な未来計画を立てようか! よし、とりあえず現状把握だ)
瀬名は持ち物の確認を開始した。瀬名に何とも言えない表情を向け、シェルローヴェンも一緒に荷物をあらため始める。
「うん、全部あるね。食べ物、飲み物おっけー、すぐ餓死する心配はないね! よかったよかった。お守り袋もあるし」
「……そうだな」
シェルローヴェンはお守り袋を手に取り、次いでホッと安堵を浮かべた。
「――ああ、弟達は無事なようだ。これを持つとそんな感じがする」
「そう? 小鳥さんいわく、迷子になった時の合流用らしいけど」
「……アークの作ったものだったのか? 瀬名ではなく?」
「うん。袋は私が皆の安全無敵を願ってちくちく縫いましたよ? 中身はヤツ印」
「…………」
青年はお守り袋の口をあけ、見なかったことにして再び仕舞い込んだ。
便利な魔道具をもらった、それでいいのだ。
「ところで私の感情、いつも通り今も筒抜けになってる?」
「訊きにくそうなことをさらりと訊くのだな……。落ち込みそうな感じがしたと思ったら、秒で立て直したろう?」
「何分もかけたら時間の無駄じゃん。世の中、『私落ち込んでます』アピールで解決することとしないことが――って、その話はいい。魔術は使えそう?」
「使えそうだな」
身体の周りにそよ風を吹かせ、手の平の上に氷の塊や小さな炎を灯して見せる。確かに、一見すればいつものように使えている。
「じゃあ、ここからあの壁まで足場を作れる?」
両脇が崖の道なんて危ないから、そもそも落ちないように足場を作ってしまおうという発想だ。
ところが。
「――!? ……駄目だ」
「消えちゃったね」
眉を顰めた青年とは反対に、予想していた瀬名は軽く肩をすくめた。
問題なく魔術を行使できるのは道の上だけで、そこから離れると徐々に拡散してしまうのだ。氷も炎も風も水も、少し道から出ると霧状になって消滅してしまう。
「何故わかった?」
「あっち側に魔素が全然ないから、なんとなくね。――みたいだな……」
「? ……ウチュウとは?」
「あー…………星空みたいだな、と」
「星空? 瀬名には、夜空があのように視えているのか?」
「あー…………そうじゃないんだけど……」
そうではない。何と説明すればいいのか。
彼の思い描いている星空は、暗闇に瞬く無数の白い光の粒だ。もちろん、瀬名が普段見上げている夜空もそうだ。
そうではなく、そのさらに奥の空間を、どう説明すればいいのだろう。
さまざまな色彩の光が岩肌の内側からぼんやり放たれているあの光景は、かつて〈東谷瀬名〉が目にして、「そういうものだ」と思い込んでいたあれに似ている。
人の目に捉えられないガスや光に色を設定し、可視化させた宇宙空間の映像だ。
宗教画のように幻想的で、神話の世界に広がりそうな美しい空。
「まあそれはいいよ。とりあえず五体満足、荷物あり、すぐぶっ倒れて昇天するほど最悪な状況じゃなさそうだし、次はどうするかだ。――あの野郎が何をしたか、シェルローは見てた?」
「見ていたが、その部分が曖昧になっている。何やら『まずい』と感じて、咄嗟に瀬名の腕に手を伸ばしたところから記憶が怪しいな」
「気付けば、私がすぐ目の前で倒れそうになってた?」
「ああ」
「てことは、あんたは特に変な幻を見ていたわけじゃなく、ここに着いた最初から目が覚めてたってこと?」
「そうなるな。瀬名の記憶はどうだ?」
「……私の記憶もちょい怪しい」
あの元教主が嫌な感じに顔を歪め、いかにも醜悪なそれが嘲笑、愉悦、そんなふうに形容できると気付いた瞬間、仲間達へ注意喚起する間もなく視界が白光に覆われた。
「何かの仕掛けを動かしたんじゃなく、術を使いやがった憶えはあるんだけど、それが何なのか憶えてない。ていうかあれは、多分私の知識にないやつを使ってた。だからシェルローが憶えてたとしても、あれが何の術だったかは結局わからなかったんじゃないかな?」
「そうか。……ならば、何らかの禁術だったやもしれん。その手合いは徹底的に秘匿されて、証拠を残さぬように口伝のみで継承されているものだしな」
口伝のみ――まさにそれがARK氏の数少ない苦手分野だった。瀬名は「チッ」と舌を鳴らす。
「報復は後でじっくり考えるとして、進むか後退するか、どうする?」
「弟達もほかの連中も、我々に合流しようとするだろう。あちらの方角へ進めば会えそうな感じがする」
お守り袋を仕舞った懐に手を当てつつシェルローヴェンが言い、進む方向はすんなり決まった。
(にしても、こういう一本道って嫌いなんだよな~)
足を踏み外せば槍の海にまっさかさま、もしくはうぞうぞ蟲の大群。
そういえばゲームのダンジョンでもこういうルートが出てきて、瀬名は随分苛立たされたものである。
「左右どちらも逃げ場のない道で、正面から道幅いっぱいの大岩がゴロゴロ転がってきたり、真横の空洞から突風が吹きつけてきたり、うっかり芽の出てる場所を踏んだら肉食植物がバクン、あちらへ渡るにはこの杭を引かなきゃいけないけどその途端天井から」
「瀬名?」
「あっ。――だ、大丈夫だと思うよ? ここって坂道じゃないし、怪しい空洞も見当たらないし、変な生き物の気配もないし!」
仕返しに手を繋がれてしまった。
片方がうっかり足を踏み外しても、片方が助けられるようにという真っ当な理屈である。最初に不吉なフラグをいろいろ垂れ流してしまった瀬名としては、大人しく受け入れざるを得ない。
命綱用にミスリルの極細チェーンあるから、それでお互いのベルト繋げばいいよ! とは提案させてもらえそうにない空気だ。
(いいけどさ……いや良くはないけど……でもあれってダンジョンの中とかだと、仲間同士の身体繋ぐのって逆にリスク高いからな……)
仲間が魔物に捕まると、繋がったもう一方の仲間が逃げられなくなる。一瞬で取り外し可能な仕組みになっていても、パニックになっていたら手指が命令を聞いてくれなくなるものだし、何とか助けるために引っ張ろうという心理が働いて、即座に外す判断ができなくなる恐れもあった。
それに、巨大種の魔物の一撃を食らえば金具に手をかける間もなく引きずられ、一緒に吹っ飛ばされるのが関の山だ。
(合理的……そうこれは合理的なんだそうに違いない。もっと合理的なのは手じゃなく、互いの手首とか腕を掴んでおくことなんじゃないかな、とか別に全然思ってませんよ? …………くっそ~!! どお~せ、私が緊張しまくってんのなんか気付いてるんだろおまえはあああこのイケメンがあああッ!! どうせちびっことか女の子以外に手ぇ繋いだ経験なんてありませんともええ慣れてませんがそれが何か!?)
手から震えが伝わってきた。絶対にこの男の肩は震えている。瀬名に精神感応力はないが、そんなもの無くともわかるのである。
「くくく……」
「やかましいわぁッ!! そっから突き落とすぞてめえ!?」
「はは! す、すまん、それは勘弁してくれ」
「んの野郎……!! この私と手ぇ繋いで何が楽しいってんだ、悪趣味め……!!」
「ん? 今まさに楽しいんだが」
「くッ……!!」
あからさまな震えを止めず、しかも握る手にさらに力を込めるとはどういう了見だろうか。謝られても反省がまったく感じられない。しかも力が強いのに痛みがないとはどういう力加減だ。
極力そちらに目をやらないようにして、瀬名はひたすら胸中で恨みごとを呟き続けた。
垂れ流しは災いの元。
瀬名さん、自分に非があるだけに強く抵抗できず。




