283話 あれば助かる万一の備え
いつも来てくださる方、ふらりと寄られた方もありがとうございます。
瀬名が雄叫びをあげて少し後のこと。
アスファは呆然と突っ立っていた。
「やっべ……はぐれた」
嘘だろ、と呟きが虚しく響く。
この面子だと、真っ先にはぐれるヤツがいるとすれば多分俺だな! とは思っていた。ほかの連中がうっかりミスで敵の罠に陥るところなど想像がつかない。
そしてその通りになった。「俺さすが♪」と虚勢を張りかけて失敗し、頭を抱えてしゃがみこむ。
「師匠にめちゃくそ怒られる……!」
そこ? と突っ込みたげな感情が腰のあたりから伝わってきた。こういう罠でたまに聞くのは、丸腰で敵の中に転移させられるパターンだが、彼の神剣【エル・ファートゥス】はちゃんとそこにあった。
怪我もしていないし、すぐ襲いかかってきそうな魔物もいない。つまりこれは最悪のパターンではなかった。
【不可抗力 ではないか?】
「うわっ!? ――って、おま、……今の、おまえの声か!?」
【声は発していない 意思がより鮮明に 通じている】
神剣を凝視して、アスファは「そりゃそうか」と頷いた。
だってこいつ口ないもんな。剣だし。
【先ほどの話だが 無謀の結果に他者を巻き込んだわけでもなし 主殿がひとり行方不明になっただけ さすがにそれだけで 折檻などはされんだろう?】
「おお、マジではっきり聞こえる感じがすんな。……つうかおまえ、あんまり融通が利かねえタイプか? 『だけ』じゃねえっての、俺がひとりで行方不明になったら超絶迷惑だろうが」
【そう か?】
「そーだよ。それに俺が心配してんのは、殴られたり蹴られたりじゃねえっての。たとえばおまえだって、俺が撃沈してる間に『アークさんしばらくこれで遊んでていいよ』――ポイ! とかやられたら絶望しねえ? そーゆーのが怖えんだよ」
【理解した】
万感を伴って聴こえたのは錯覚だろうか。
なんで俺、剣に真剣に話しかけてホッとしてんだろう――アスファは微妙な気持ちになる。知らない第三者から見たら、ぶつぶつ独り言を呟いている怪しい奴にしか見えまい。
「おまえの声、つーか意思? 最近前より通じるようになってたけどさ、なんでいきなりこんなハッキリわかるようになったんだ?」
【ここが そのような空間だからだ】
「そのような空間、ってつまり何だよ?」
【それ以外に 説明のしようがない それから主の声の届く範囲に 敵性反応はない】
「おっと、そうか。助かるぜ」
ついパニックになりかけていたが、状況がわからないのに大声を出すのはまずかった。反省しつつ、教えてくれた相棒に感謝する。
それに、単なる意地悪で遠回しな言い方をする剣ではないし、本当にほかに説明できないのだろう。アスファは立ち上がった。
「荷物は、ある。中身は……うし、ちゃんとあるな」
革製の荷物入れは動きを阻害しない形状で、身体にしっかり固定されるベルト付きのもの。中身も最低限、必要なものだけを入れてあった。
携帯食と飲み物、ナイフ、小さな発火用の道具と、灯り用の陽輝石の欠片、回復薬、安全祈願・旅のお守り袋。
このうち、口に入れるものすべてと安全祈願のお守り袋は〈黎明の森〉からの支給品だ。携帯食はひと口かじるだけ、飲み物はひと口飲むだけで一日保つ。回復薬はひと粒で数時間、怪我を負っても自動回復すると聞いた。どれも市場には絶対に出ない出せない、門外不出の品々だ。
武器があり、荷物もなくしていない。嘆くにはまだ早い状況だった。
(……何があったんだ。どうしてこんなことになった?)
ぐるりと視線をめぐらせれば、煉瓦も敷石も柱もない、ごつごつした岩肌の洞窟がずっと奥まで続いている。
奥は暗い。けれど自分の周りだけ奇妙に明るかった。月輝石の仄青い燐光とは違って、紫や橙色、緑や赤や黄色が混ざりきらずに混ざりあい、けぶるように岩肌を覆っている。
時おり針で開けた穴から陽光がちらつくかのごとく、小さな白光が散りばめられて、さながら洞窟の中で輝く星だ。こんな場所でなければ美しい光景なのだろうが、不気味さが先に立って素直に綺麗とは言えない。
「……いつの間にこんなとこに来たんだ、俺?」
さっきから何度も自問するほど、ほんの少し前の記憶が辿りにくくなっていた。
もやのかかった出来事を、鮮明なところから順に追っていく。
◇
マジ鬱陶しい! と瀬名が雄叫びをあげた。そのあたりはまだ鮮明だ。
アスファは全力で頷きつつゲンナリしていた。いい加減にしろよこのジジイ、と、彼もまた胸ぐらをつかんでやりたくなった。
お爺さんやお婆さんは優しく丁重に接するものだと昔から思っているが、確信犯の迷惑ジジイはとことんこちらの忍耐と良心をえぐってくる。
けれど瀬名が担当をしているので、変に邪魔をしてはいけないと我慢して押しつ……お任せした。
一行が先へ進もうとした瞬間、あの元教主の身体を、ちろりと何かが這ったように見えた。
赤い糸ではなく、黒い糸がちらついた。一瞬で消えてしまったので気のせいかもしれない。あの角度なら瀬名の視界には入らなかったろう。多分シェルローヴェンにも見えなかったはずだ。
(俺よか勘のいい連中が無反応だし、変な気配はねえんだよな……)
ローブが揺らいだ時の影でそう見えたか、どこかに糸がほつれて伸びているだけかも。
けれど己の目に映ったと感じたそれを、胸の中から消せなかった。
些細なことでも報・連・相は欠かすなと言われているし、低い可能性でも勘違いではなかった時がことだ。少なくとも、ほかに誰かあれを目にした者はいないか、その程度は確認しておこう。
『あれで油断しとらんのだから、たいしたもんだの』
『おめーもそう思うか、爺さん?』
『セナのことか?』
『おうよ。あんだけイライラしとるのに、警戒はこれっぽっちもゆるめとらんわな。荒ぶっとるのに冷静たぁ器用だの』
柔軟でいろいろ知っている肝の太いグレン。いつでも頼れて信頼感抜群のウォルド。普段はあれだがこういう環境ではトップランクなんだなと実感するバルテスローグ。
声をかけたいが、どう切り出せばいいか……。
『グルグルしているな。どうした?』
『っ……エセルさん』
さりげなく近くに来ていたエセルディウスに低く声をかけられ、反射的にアスファはびくりと強張った。
顔つきが気難しそうに見えるので、とっつきにくいと苦手意識を覚えている相手だった。
(――あれ? でも、なんかそうでもないのかな?)
考えてみれば、この青年に酷い目に遭わされたことは一度もない。なのに、勝手に怖がるのは失礼だったろうか。
第一、あちらから話しかけてくれた上に、無視もされていない。食わず嫌いならぬ話さず嫌いだったか?
『ええとその、実は、糸が……』
言いかけて思いとどまった。この距離だと、多少耳がよければ小声でも聞こえてしまう。
ローブ姿の老人に視線をやり、あいつに聞かれずにどう伝えたらいいんだろう、とアスファは悩んだ。
だがそれで充分だったらしい。エセルディウスの表情に変化はなかったが、目に厳しい色が差した。
向こう側でノクティスウェルの視線も冷たさを増し、エセルディウスと二人で、ゆっくりさりげなく歩調を速めた。向かう先にいるのは彼らの長兄だ。
その長兄がちらりと意味ありげに目を寄越してきて、アスファは内心で「うわっ」と舌を巻く。そういえばこの兄弟にはこちらの感情が筒抜けで、兄弟間でその能力を利用した無言のやりとりが可能なのだった。
エセルディウスとノクティスウェルが、シェルローヴェンと瀬名のいる場所に近付いてゆく。ローブ姿の老人はこちら側へ背中を向けていた。身体を維持する最低限の魔力しか残っていない元教主は、接近する気配に気付けはしないし、背後が見えてもいない。
いないはずだ。
グレン達が不意にお喋りをやめてそちらに感心を向けた。
それから……。
◇
それから、何が起こったのだろう。そこから記憶が靄の中だ。断片らしきものをかき集めようとしても、腕の隙間からするする抜け落ちて曖昧になってしまう。
その直後に何かがあったのは明白なのに。
「おまえは何が起こったか憶えてるか?」
【否 我もその瞬間だけ意識が揺らいだ ゆえに推測だが あの老体が禁術を使用したのではと】
「禁術ぅ?」
【そして 我らは強制転移 させられた 恐らくは全員が】
「んの野郎~っ! やっぱあの広間に放置しときゃよかったんじゃねえか!?」
【目的の場所までの扉が すべて奴の魔力と生命力を 鍵と認識している 偽造は不可能 そうでなくばセナ=トーヤが 奴を連れ回したりはしない】
「……わかってっけどよ。これ、もしかして帰り道が開かねえパターンじゃねえか……?」
【否 一度開いた扉は 我とエレシュが押さえた 帰りは支障ない】
「おおっ、さすがだな! 帰りもあの野郎に頼るしかねーとか、まじ勘弁だし助かるぜ! 【エレシュ】ってウォルドが加護もらった神様だよな。今度お礼にお祈りしたほうがいいかな?」
【ウォルドに会えば 直に伝えるといい】
つい、ウォルドに向かって祈りを捧げる己をアスファは想像した。間違いなく酷い嫌がらせだった。
「馬鹿なこと考えてねーで、とにかく、みんなと合流しなきゃな……」
【前進せよ いずれ再会できよう】
「あっさりと言うな」
だが、前も後ろも同じ暗闇、どちらに進んでいいかもわからない。それに普通の遭難ならあまり動かないほうがいいと聞くけれど、ここでは同じ場所にうずくまっていても解決しそうになかった。
神剣の声に従い、最初に向いていた方向を〝前〟として歩き始めた。止められる様子はないので、この方向で合っているのだろう。
【全員の転移は想定の 範囲内 セナ=トーヤは対策を している】
「そうなんか? だったらいいけど」
歩きながらアスファは周囲に違和感を覚え、すぐその理由に思い至った。だいぶ歩いているのに、自分の周囲だけが相変わらず薄明るいのだ。
奥は闇。けれど自分とともに灯りも移動している。不可思議な色合いの、岩肌に染み込んで内側から照らす灯りが。
(あんまり気持ちよくねえな、こういうの……)
陽輝石や松明の灯りのほうがいい。少なくとも〝灯り〟という実感がある。こういう正体不明の現象は好きではなかった。敵地でなければ、また違った感想を抱いたかもしれないが。
曲がり道も横道もなくひたすら洞窟内を直進し、どのぐらい進んだのだろう。
「ん? …………あぁっ!?」
「おっ? アスファじゃねーか!」
「グレン! ――ウォルド、ローグ爺さんも!」
「無事だったか」
「怪我もなさげじゃの~。よかよか」
本当にこっちで合ってんのかな? そう不安になりかけていただけに、アスファの目尻に涙が滲む。
以前と比べれば段違いに精神面が鍛えられているとはいえ、経験不足は如何ともしがたい。
「よ、よかった……! あんたらも怪我してねえみたいだな?」
「おう、この通りな。まあ怪我しててもウォルドがいるけどよ」
「怪我はしないに越したことはない。治すぶん俺の魔力は消耗する。ここでの乱発は避けたいからな」
「まあなあ」
「ワシもなんぞ、ここは好かんわ。とっとと出ちまいたいのう」
バルテスローグの台詞にアスファは気を引き締める。鉱山族が地下を嫌がる発言をするなど、ここが尋常ではないと証明しているも同じだ。
「でも、結構すんなりグレン達と合流できてよかった。こっちでいいのかな、て不安になってたからさ」
「俺らも最初はバラけてたんだぜ。セナの対策が功を奏したな」
グレンは見覚えのある布袋をひらひらと揺らした。同じものがアスファの荷物の中に入っている。
安全祈願・旅のお守り袋だ。




