273話 城壁の上の女神
「よお」
長い階段を上り切った出口の横で、グレンが暇そうに香草を食みながら壁に背を預けていた。
地下牢から戻った二人の姿を認めるなり肉球をひらひらさせ、香草をぺろりと呑み込む。
「グレン……」
「シケたツラしてねぇかと思ったが、すっきりしてそーで良かったぜ」
「……そう見えるか?」
「見えるし、実際にそうなんだろうがよ?」
「…………かもしれん」
ウォルドは少し頭をかいた。
「グレン殿は何故ここに? 気を利かせてくれたようだが、それだけではなさそうだ」
「グレンでいいぜ、王子サン」
「ならばわたしもシェルローでいい。おまえ達は好きに呼んで構わんと前にも言わなかったか? 弟達と紛らわしい上に、この国の馬鹿王子と同じ呼称など御免こうむる」
「安心しろ。奴らの世間一般的な呼称は『ちゃま』付けか、しょうもねえ二つ名のほうだからよ」
案内の騎士は俯いて瞼を伏せ、耳が遠くなったふりをした。
「カルロの旦那の手前、俺があんたらを気軽に呼ぶっつーのはやりにくいんだがなあ」
「その言葉遣いで今さら気にすることか?」
「はは、そーいやそうだわ。確かに紛らわしいし、真面目に遠慮はなしで行かせてもらうぜ、シェルロー」
「それでいい」
騎士は一礼して去り、グレンが二人を先導して、屋根のない壁の上に出る。
この城の地下牢の出入口は、城壁を繋ぐ塔の最上階に設けられていた。牢獄塔へ繋がる城壁の外側は、遥か下まで出っ張りひとつない壁が続き、終着地点にはごつごつした岩肌と深い水路が待ち構えている。そうそうないことだが、万一罪人が牢から抜け出せたとしても、次はどうやって下りるかに難儀させられるだろう。
数名が横並びになっても余裕で歩けるほど分厚い壁はこの領地の特徴で、他領の城ではこの半分もない。城壁の内側には手すりとして低めの壁が設けられ、外側には大きな凹凸や小さな開口部を設けた背の高い壁がある。
さらに特徴的なのは、外側の壁に等間隔で並ぶのは柱などではなく、天に刃を向けた巨大な半月刀である。巨人の振るう刀もかくやという物騒なそれらは、飛行型の魔物対策であり、初めて訪れた他領の客人は大概ぎょっとするものだ。
そもそも〈祭壇〉の守護結界があるのに、こんな場所まで魔物が攻め込めるものか――辺境以外の領主は口を揃えて小馬鹿にするが、辺境の領主は「どこかに抜け道がある」と常に備えておかねば無能の謗りを受けるのだ。実際、結界が意味をなさなかった怪物の襲撃は、これから二回目になろうとしている。
前代未聞の大事件のはずなのに、さほど動揺もなく落ち着いているのは、その備えがあると皆が知っているからだ。
「俺の用事ってのぁ、まあ行ってみりゃわかる。……お、あいつらも来たみてーだな」
アスファとバルテスローグ、エセルディウスとノクティスウェルに合流した。
彼らはそれぞれ訓練や見回りなど自分の仕事を済ませた上で、ほどよい時間帯に待ち合わせをしていたようだ。
「エルダ達はグラヴィスのおやっさんのとこか?」
「うん。カシムさんやカリムさんも一緒に細かい打ち合わせとかしてる」
「ほひょ。やつらも災難じゃのー。ほんまなら今頃ガキども連れて、のんびりドーミアへ向かっとる予定だったちぅに」
「俺は助かるけどさ。強い味方がみんなの近くにいてくれると安心するし」
「それ、今度本人達に言ってやれよ。で、どんな反応だったか教えろ」
「やだよ! ぜってーからかうだろアンタ!?」
ニヤリと猫目を細めたグレンに、アスファは焦った。
カシムとカリムのためにも、実は既に本人達へ告げて珍しい反応を見てしまったなんて、絶対に喋ってはならない。
が、わかりやすい動揺をグレンが見逃すはずもなかった。グレンは猫目をますます細め、あえなくカシムとカリムの未来が確定した。
「おまえ達……ラフィエナは今日もか?」
「今日もです。ご機嫌なガルセス殿が訓練場に持って行ってくれました。おかげでわたし達、とても楽ができます♪」
「もうあの二人はエルダ達と組ませて、イシドールの駆除班でいいと思うぞ? ナナシと組ませても面白そうだが」
「ふむ……ラフィエナも瀬名に同行したそうだったのだが、これでは仕方ないか」
「ええ、仕方ないですよ」
「うむ、仕方ないと思う」
「そうだな、仕方ない」
勝手に決めるなと後で怒られるかもしれないが、そうなれば頼もしいガルセスに引き取ってもらおう。
そんな三兄弟の会話に、ウォルドが首を傾げつつ尋ねた。
「あなた方は王子だろう? ラフィエナ殿よりも上位なのではないか?」
「〈黎明の森〉へ移住した女は十指に満たないが、全員母上の子飼い。さらに言えば全員わたしよりも年上だ」
「すまん、わかった。よくわかった」
「げげ……あれ全員かよ? アルセリアっつー嬢ちゃんいたろ、細っこくて小柄な。あの可愛い嬢ちゃんもか?」
「あれを可愛い嬢ちゃんなどと、恐ろしい呼び方をするな」
「兄上より年上どころか、母上と同年代だぞ」
「うげっ、マジか!?」
「マジです。それこそ我々が赤ん坊の頃から全部ご存知な方なので、頭が上がらないんですよ……」
「あの子、いやあの人、俺より年下っぽいって思ってたのに……それってまるで近所のおばちゃ」
「言うな!! それ以上言うんじゃねえッ!!」
グレンの尾がぶわりとふくらみ、アスファは反射的に己の口をバッと塞いだ。
「あ、危ねぇ……心臓止まりかけたぜ……」
「――いいかアスファ。命が惜しくばその単語は断じて声に出すな。頭にも浮かべるな。記憶から捨て去れ」
「は、はい……」
「いいですか、この世には禁句というものがあります。瀬名いわく地雷語とも言うそうですが、踏み抜けば凄まじい破壊の雷に吹き飛ばされて跡形も残らない、まさにそれです。場合によっては周りの者も巻き添えになりますから、言葉選びにはもう少し慎重になりなさい」
「す、すんませんっ」
「おっとろしいのぅ……肝が冷えたぞい」
「ああ……俺も迂闊に話題を振るのではなかった」
「ううぅ……ごめんなさい、これからもっと気を付けます……」
ぞろぞろ歩きながら話す一行はかなり目立つ取り合わせなのだが、人通りのない城壁の上で、彼らを不躾に眺めてざわめく者はいない。
たまにすれ違う巡回の騎士も、ひとつ会釈をした後は何ごともない顔で通り過ぎる。本心では気になっているのだろうが、好奇心で職務を疎かにするようなことはない。
それでも三兄弟は盗聴防止のため、風の魔術で結界を張っている。用心はしておくに越したことはないのだ。
ちょこちょこ小動物のように小走りで歩いていたバルテスローグが、不意にウォルドを見上げて「ほひょ」と満足そうな声をもらした。
「ホンマ、さっぱり片付いたようじゃのー。よきかなよきかな」
その言葉の意味を尋ねる者はなかった。
ウォルドは、先ほど何のためにシェルローヴェンと地下へ行ったのか、ここにいる皆が承知しているのだと悟った。
「すまん。俺は本当に不甲斐ないな。皆に心配をかけていたか」
「構やしねーって」
「そじゃの。どこにでもこーゆー話はあらぁな。むしろ心配かけたらあかんちぅて、無理に我慢すんのが迷惑だぁな。おまいさんがすっきり前向きんなるのが皆のためっちうもんだの」
「そうだろうか。――いや、そうだな」
「そーだよ。ローグ爺さんの言う通り、ウォルドは自分に厳し過ぎだって! ……つうかアレ、力尽きてシオシオになった後はどうすんだ? って、訊いちまったらまずかった? さすがに無神経?」
「俺への気遣いならばもう不要だぞ、アスファ」
「気になるのは当然ですし、まずくありませんよ。アレはね、骨の欠片も残さず、完全に燃やすんです」
「遺体は一片も残すなと瀬名の指示があったのでな。煙が出ないように注意しながら浄化の円陣の内部で灰にし、最後に聖水で流した。悪しき魔力の残滓もそれで完全に消えるのを確認している」
「そ、そうなんすか」
「ただし、〝種〟は残るのだがな」
「えっ」
青ざめたアスファの前に、シェルローヴェンが懐から小瓶を取り出す。
透明度の高い瓶の中身は、小指の先程度の、ありふれた〝種〟であった。
「そそ、それって……」
「奴の体内にあった。これだけは燃えなかった……いや、全力でやれば消滅するかもしれんが、この城を破壊するわけにいかんだろう」
「ひえ……」
「生き物の体内で根を張る性質があり、植物への影響は未確認だが、下手に近付ける気にはなれんな。この状態ならば無害のはずだが、念のために凍結させている」
ぞっと身を震わせるアスファをからかう者はいない。
「伯のほうも同様に死骸を処理し、〝種〟はすべて厳重に箱の中に保管しているそうだ。瀬名やアークならば、これの安全な始末方法がわかるやもしれん」
「無闇に力をぶつけるのではなく、何かコツがあるかもしれませんしね」
「丁度いいから訊いてみようぜ。ほれ、あそこだ」
「――……」
グレンが顎をしゃくり、意味を理解した一行はなんとなく無言になった。
視力の良い者ばかりだが、まだ点にしか見えない距離。それでも、そこにいるのが誰なのかを想像できない者はいなかった。
(……いつものことながら、まったく魔力を感じないな。ここまで近付いても気配がわからんとは不思議なものだ)
瀬名がどこを移動しているのか、精霊族でさえ掴むのは至難の技だ。振動や風向き、匂い、心の揺らぎ、生命力、存在力などあらゆるものを総合し、かつ一定以上まで近付いてようやく居場所を察することができるようになる。
最近では瀬名に教えてもらった魔素の流れを頼りに、三兄弟は以前より瀬名の位置を捉えやすくなった。ただしそれは彼女が隠れようとしていない時に限定されており、もし瀬名が本気で隠れてしまえば、誰も行方を追えなかった。
本当はどこにも存在しない幻であるかのように。
(今は〝半分本気で隠れている〟状態だな。ラフィエナ対策か?)
その姿が明らかになるにつれ、静かな驚愕を伴う感嘆の波動が辺りに満ちた。
あの装いの犯人はラフィエナであろう。精霊族の美女を先頭に、大量の布包みを抱えた侍女の行軍は今朝から城じゅうの噂になっている。
グラヴィス騎士団長は「気が済んだらやめるだろう」と放置したらしい。女達が衣装にかける情熱を甘く見たのではなく、甘く見ていないからこそ止められなかった可能性が濃厚であった。
(今回ばかりはいい仕事をした……などとラフィエナを称賛したら、瀬名は怒るだろうか)
内心でひっそり詫びつつ、しかしこの場にいる全員の総意で間違いはなかった。
彼女は外側の壁の凹部分に腰をかけ、町の景色を楽しんでいる様子だった。
沈みかけた太陽が一日の中で最も色鮮やかに空を染め、まるで熔解した黄金のごとき世界に、自身もその一部であるかのようにとけ込んでいる。
斜陽と肌と衣装の色が混ざり合い、馴染み、真珠と羽根の耳飾りが飛翔する鳥の姿を連想させ、黒くなびいている髪が夜の訪れを彷彿とさせながら、以前のような猛毒めいた怪しさ、妖艶さがまるでない。
衣装の形から女性だとわかるのに、何故か性別の生々しさを一切感じさせなかった。傍らにある魔導刀が淑やかさを相殺しているせいか、それとも本人の気性を知っているせいなのか。
そこだけが現実から切り離され、夢が顕現したかのような――犯し難い神秘性。
黄昏の女神と名乗られても、誰ひとり疑えそうにない説得力。
冗談でも贔屓目でもなく、美しかったのだ。




