266話 密書② ~赤髪の魔術士~ (後)
背後から視線を感じる……。
何者かに監視されているような……。
思い過ごしであればいいが、万が一にも邪魔が入らぬうちにこの文書を完成させてしまわねばならない。
これはかの女王が首を長くしてお待ちなのだから。
◆ ◆ ◆
その男はエルダの口もとを覆っていた手を放し、指を唇にあてて「シー」という仕草をした。
ちなみに指を当てたのは彼自身の唇ではなく、エルダの唇だ。
此奴、手慣れている。
睨み上げたエルダの眼力の強さなどものともせず、むしろ愉しげな様子が豊富な経験値を窺わせた。
背後から全身で抱きしめられる体勢に、エルダはぷるぷる震えながら首から上を沸騰させている。顔色を判別しにくい月の夜、しかも物陰だが、心臓の暴れっぷりですぐに判ったのだろう、男は喉奥だけで微かにクッと笑った。
間違いなく〝たらし〟である。
これは一般的な俗語で〝女の敵〟という意味だ。
男は、金ランクの中でも聖銀ランクに最も近いと言われる討伐者パーティのリーダーだ。
出身地は南方諸国のどこか。年齢は二十六、七歳。はっきりしないのは孤児だからだ。
若いが無謀な喧嘩をふっかける年齢は過ぎ、何もかも達観できるほどの年齢には至っていない。自由と遊び心を愛し、雪というものに興味を抱いて、北方諸国を目指したのは五年ほど前。以降はおもに光王国を活動拠点とし、つい最近久々に南の地へ足を運んだばかり。
褐色の肌、長身で立派な体躯を誇るが、巌のような筋骨隆々ではない。剣も扱えるが、得意とするのは魔術を用いた接近戦だ。現時点での推定階位は第五から六。ほぼ独学でそこに到達した実力者なのだが、以前エルダにはそれが原因で見下され、指導役を拒絶された過去がある。
野性的な雰囲気と、学者めいた知的な雰囲気が混然とし、謎めいた印象を強く残すが、朗らかな口調と気さくな態度で相殺している。おそらく己の外見のもたらす利と不利を熟知しており、時に相手の警戒心を和らげ、時にわざと煽り、時に魅了して己や仲間の利へ繋げようとする。
ひとことで表現すれば〝曲者〟だ。
腕の中の子猫に威嚇されようが爪を立てられようが、余裕たっぷりの笑顔でいなすのだろう。
エルダの身の安全が心配である――いや、もちろん偉大なる女王の庭で、女性に無体を働く不埒者などいない。今後の、という意味である。
彫像の近くには植木があり、身を隠す場所は決して狭くはないのだが、ごそごそしていれば気取られてしまうので、二人が密着しているのは仕方がないのだ。
仕方がないのである。
ほんのわずかだけ顔を出し、二人は池のほうを見た。その手前に立つ麗人に、歩み寄るもうひとつの人影がある。
言わずもがな、魔族の血を引く女と、勇者の少年、月夜の邂逅であった。
なんということであろうか。
彼らの逢瀬には、目撃者がいたのである。
むろん、気配を殺してひっそり注目するこの二人を除き、庭を監視する者の存在は皆無であった。
枝葉の陰で静かに見守る、つぶらな瞳の小鳥のみ……。
池のほとりで声を交わす彼らの周りの空気が、いつもと異なるのを察したのだろう。エルダはとても気まずそうな表情をしている。図らずも覗きに加わる羽目になってしまったのだ。かといって今さら声をかけるわけにもいかない。
頭上に困惑の視線を向ければ、なんと男はとても愉快そうにしているではないか。
エルダは目尻と眉を釣り上げ、拘束する腕にぎりり、と爪を食い込ませた。余分な脂肪がなく、つねるのに向いた皮膚がなかったのだろうが、昔はともかく真面目に討伐者をしている現在、彼女の爪はさほど長くない。それこそ嫌がる子猫に爪を立てられた気分なのか、男はたいして痛そうな素振りもなく、むしろ笑みを深めてぎゅうぎゅうと抱き直していた。
「ひいい」と顔に書いて、暴れたいのに暴れられない、そんなエルダの可哀想で可愛らしい様子といったら筆舌に尽くし難い。
実にけしからん。
彼女の身体は日々の鍛錬で不要な贅肉が減り、必要な筋量がやや増えているので、出るところは出て引き締まるべきところはきゅっと細いけしからん体形なのだ。
すれ違う男が「おっ?」と振り向く、とても素晴らしい身体つきをしているのである。
実にけしからん。
いや、このぐらいにしておこう。
池のほとりの二人が声をひそめているのもあり、彼らの会話はエルダ達の場所にぎりぎり届くか届かないかといったところだ。
さらに、ぎりぎり気配を察知できない程度の距離でもある。彼らは魔術士ではないので、敵対意思のない仲間の気配は、そこそこ接近されなければ気付きにくいのだ。
おまけに男は、気配や物音を隠す魔道具を懐に忍ばせているようだ。これは魔物から標的にされにくいよう、遠距離攻撃や魔術を得意とする戦士が時おり所持していることがある。
富裕層向けの魔道具や守護の魔石であれば、値段に見合って効果範囲も広くなるが、討伐者向けに安価に抑えられたものは――それでもおいそれと手出しできない程度には高価なのだが――だいたいが自分ひとりを対象としている。この男の魔道具も例に漏れず、赤毛の子猫と密着しているのは、そうすれば子猫もまた魔道具の効力の範囲に含まれるからだろう。
それでもいつものリュシーであれば、視線に敏感に反応するはずなのだが、どうやらすっかりアスファ少年に気を取られている。
ここで首をひねらずにいられない点は、少年の手にある相棒の神剣の姿だ。
まだ未熟な少年が気配に鈍いのはともかくとして、神剣が目撃者の存在を把握していないはずがない。にもかかわらず、剣は己の所有者にその事実を伝えなかった。
もしそうであれば、
「俺は近くにおまえがいるとすげー安心する。すげー頼もしい。ほっとする」
とか、
「俺はリュシーを信じられるし、すげー頼りにしてるんだよ。戦ってる時、おまえが背中守ってくれてて、俺はあん時……」
等々、安心して熱烈な雨あられを続行できるはずがなかった。
……もしや、空気を読んだのだろうか?
剣なのに。
つくづく神剣とはなんなのだろう。
もしくは、どこぞの何者かから「余計なことを言ってはなりません」と密かに圧力をかけられ――否、まさか。考え過ぎだ。
ともあれ、リュシーとアスファはつつがなく月明りの逢瀬を終えた。
「……子供のくせにッ!!」
崩れ落ちたリュシーが地面を殴っている。
仲間のそんなところを最初からばっちり見てしまい、エルダはもの凄く気まずそうにしていた。罪悪感が先に立って愉しむ余裕などないのだろう。
リュシーは両手で顔を覆いながら、地面にごろりと仰向けになっていた。掃除が行き渡っていても地面は地面、「もう一度お風呂に入らなければ…」と思っていたかもしれない。
しばらくして、リュシーは身を起こして深々と溜め息をつき、部屋着をぱたぱたと払いながら立ち上がった。何度か頭を振って天を仰ぎ、幾分か冷静さを取り戻した顔つきになって、それでもやや動揺を引きずっている雰囲気で、俯きがちに部屋のある建物のほうへ歩いて行った。
おそらくエルダへの言い訳に悩んだろうが、客間には図書室へ向かう旨の書き置きが残されており、己の格好に突っ込まれずに済んで安堵したに違いない。
灰白色の髪が遠ざかり、その姿が見えなくなってからも、男はしばらく赤毛の子猫を放さなかった。
良い石鹸を使っているのだろう、香る髪にさりげなく鼻先を埋め、抱きかかえる手つきが自然にけしからんのだが、明らかに堪能している。
「……も、もう行きましたわよね? もういいのではないかしらっ?」
「いや、あいつなかなか鋭そうなお嬢さんだろ? 念のためにもう少し……」
「嘘おっしゃい! リュシーの察知範囲ならわたくしのほうが詳しいのよっ、その不埒な手をお放しなさいこの助平ッ!」
「ひでえな」
罵倒されても男は愉しそうだ。
「……何を笑ってらっしゃるんですの。気持ち悪いですわね、ニヤニヤと」
「そりゃ、面白いからな。わかんねえもんだ。妙な趣味が芽生えたってわけじゃねえけどよ、あんたから罵声浴びて、気分良くなる日が来るとはな。どっかおかしくなっちまったかな?」
「――それは、おかしいですわね、ええ、とっても。金輪際、近付かないでくださいます?」
「ひでーな。」
くっく、と喉の奥を鳴らす笑い方がこう、大人の色気の洪水と言おうか。とにかく〝曲者〟と〝たらし〟の本領発揮である。
「俺はあんたに何度でもくっつきたいんだがな?」
「んなッッ!?」
「さっきの続きしていいか?」
「だだだだだだ駄目に決まっているでしょうはは破廉恥なッッ!?」
「かてぇこと言うなよ?」
しっとり含んだ声音は、不思議と嫌らしさを感じさせない。つい聞き惚れているうちに誘いこまれ、のっぴきならなくなっていそうな声色。
――流石だ。
流石であった。
もしこの場に少年がいれば、経験値の違いをまざまざと見せつけられて地に崩れ落ちるどころかめり込んだかもしれない。
ちなみにこの男、戦闘後の行動もアスファ少年とは大きく違っている。
『全力を尽くしますわ』
そう言って、凛とした覚悟とともに自然に笑みを浮かべたエルダに、男は目を瞠っていた。
以前より遥かにキレの良さ、精度や威力を増した魔術を披露する〝元令嬢〟に舌を巻き、この戦場から決して逃げようとせず立ち向かう姿に、男の視線に少しずつ熱が宿っていった。
やがてあがる勝利の声。
『……エルダ』
荒い息をつきながら、呆然と二人は視線を交わし――
この男は一度訪れた機会を確実にその場でものにする男だった。
すばやく獲物を捕獲し、「む!? むぅ~ッッ!?」と暴れる少女の抵抗も何のその。
ひっぱたかれて「ななな何するんですのこのケダモノッッ!?」と罵倒されても、機嫌よく笑い声をあげるばかり。
たまたまその瞬間を目撃していた連中が口笛を吹いて囃し立て、エルダはプルプル震える足を叱咤し真っ赤な顔で狼藉者を睨みつけたのだが、迫力などあろうはずもなく……。
要するにそういう男であった。
ちょっと悲しそうな顔で追撃もかけている。
――ところが。
「……いい加減にしてくださいませんこと?」
エルダの声色がす、と変わった。先ほどまでの狼狽っぷりとは違う、怒りながらも落ち着いた声だ。
何故突然、彼女は冷静になれたのだろうか? 男も少しきょとんとしたようだった。
「わたくしをからかうのは、もうやめてくださらないかしら」
「結構本気なんだが?」
「ええ、そうなのでしょうね。『結構本気』で、『結構面白いなこいつ』と思っているのでしょう」
「――――」
男の表情から、愉快そうな笑みがす、と消えた。
なるほど。エルダの指摘は的を射たようだ。
「わたくしはまだ初級者、あなたを認めさせるには力量も経験もまったく足りない。ですからあなたにとって、わたくしは討伐者として評価すべき対象ではなく、『からかったらちょっと面白い相手』に過ぎないのでしょうね。――ですがわたくしは、あなたの玩具にも、遊び相手にもなる気はありませんわ」
「…………」
「わたくしは〝曙光の剣〟の魔術士エルダ。少し前にランクが鉄に上がったばかりですけれど、まだまだ未熟。しばらくデマルシェリエの地で研鑚を積む予定でいます。いつになるかはわかりませんけれど、またいつかお会いいたしましょう。おやすみなさい」
「…………」
それきり、エルダが振り返ることはなかった。背筋は伸び、足どりにも迷いはない。
『わたくしはフラヴィエルダ=ノトス=バシュラール! おまえごときがこのわたくしの指導者などと、嗤わせないでくださいます?』
そんな侮蔑を浴びせたあの日の彼女より、今の彼女は遥かに気高く、強さと気品を漂わせていた。
そう、フラヴィエルダは貴族令嬢であり、その頃の経験がエルダから完全に失われたわけではない。腹の中に一物抱えた輩、下心をもって女性を賛美する輩、そういうものが過去に何人も彼女の傍に群がってきた。気性が荒く扱いにくい令嬢と噂されていても、公爵令嬢という立場に魅力を感じる連中は多い。
今それらを思い返し、当時の己がいかに甘い言葉に乗せられやすく、ころりと騙されやすかったのか、エルダは痛感したのだろう。だからこの男にもやすやすと陥落させられることはなく、毅然とはねのけてみせた。
アスファ少年だけでなく、エルダの成長も日を追うごとに目を瞠るものがあった。
素晴らしい。
素晴らしいのだが、言っていいだろうか。
エルダよ、この手の男にそれは逆効果だぞ、と。
男の唇の端がじわりと持ち上がり、すう、と目が細められた。
獲物を定めた肉食獣のそれである。
振り向かなかった少女は幸いだったのか、そうでないのか。
少女がデマルシェリエに帰還した時は、「エルダ逃げて!」と叫ぶべきか、新たな護身術を教えるべきか……悩ましいところである。
◆ ◆ ◆
《普通に再会するとなれば、およそ一年後ぐらいでしょうか。その頃にはさらなる成長が見込めることでしょう》
「――何? 何故そうなる?」
……いけない。空耳につい反応してしまった。
《ですから、陸路を普通に通って南方諸国から光王国へ向かうとなれば、そのぐらいはかかりますよ。エルダ嬢はそのあたりも含め『いつになるかは不明』と言っていたようですが》
「あ」
そうだった。
南方諸国と光王国の間にもさまざまな国がある。広大な砂漠、険しい山や急流を迂回し曲がりくねった経路、遠大な距離は言うに及ばず、国や町へ入ったり出たりという手続きもあるのだ。
宿を探したり、路銀の確保にギルドで仕事を探したりすることもあるだろう。だから一般的に討伐者が旅をするとなれば、そのぐらいは見積もる必要がある。
(つまり再会は一年後? え、そんな? うそん?)
――いや。諦めるのはまだ早い。
「南の女王様と光王国の女王様――いや、王妃様の双方に連絡を。ある討伐者パーティに指名依頼を出してもらう。急ぎの仕事なので〈黎明の森〉の持っている極秘ルートの使用許可を、目隠しの条件つきで与える」
《間の国々はどうなさいますか? ゼルシカ殿やアスファ一行は要するに密入こ》
「おおっと、それ以上は口にしてはいけないよ。そんな事実はどこにもないのだからね」
《……失礼いたしました。要するにそういうことなので面倒はないかと思われますが、かの男のパーティは間の国々を通過して南へ向かった事実があります。再びそこを通過させたことにするには、少々手間がかかりそうですが》
「そんな必要はなかろう? 同じことだよ。彼らは確かに色んな国を通って南へ行ったのだろうけれど、それらの国々は既に〝入国と出国〟どちらも完了している。帰りにもそこを絶対通過しなきゃいけない、なんて法があるわけじゃない。パナケア王国を出た後に光王国へ入るだけだよ」
《――ああ。なるほど。そういう理屈ですか。承知いたしました。南の陛下にも、口裏を合わせていただくようお願いいたしましょう》
強引? 屁理屈?
そのようなもの、辻褄さえ合ってしまえばどうということもないのだ。
あとは〝彼らに依頼して不自然ではない内容〟を、これから吟味するだけであった。




