265話 密書② ~赤髪の魔術士~ (前)
――〝南の女王より、〈森〉の主様へ――
南の地より返信が届いた。
勇者や魔族と分類された人々の扱いは南においても悩ましいところであり、新たな学びを得られたと繰り返し感謝を述べてくれていた。
彼らの存在をどう受け止め、今後彼らとどのように関わっていくか、あの書が正しい判断の助けになるだろうとのこと。
少々面映ゆいが、お役に立てたのであれば幸いである。
ただ、彼女はもうひとつ、かの夜に気がかりを残している様子だった。
勇者の仲間である赤髪の魔術士に、不埒者がよからぬ真似をしでかしてはいないか、というのだ。
ほかでもない女王の提供した建物の中、大それた真似が出来る者などそうそういはしないと思いつつ、誠意をもって監視をすべて取り払った弊害で、内部の事情がほんの一時あやふやになってしまっていた。
教育の行き届いた使用人を揃え、厳選された客人のみであったとはいえ、招いた側としては常に心配事が尽きぬのであろう。
むろん、抜かりはない。
女王の不安がいかに杞憂であり、あの夜がいかに平穏であったのか、詳細をお知らせするとしよう。
◆ ◆ ◆
高位貴族に生まれ育ったエルダは、清潔好きで長湯が好きだ。
同じく風呂好きでも、リュシーのほうは入浴時間が短い。これは彼女がつい最近まで奴隷であったことが関係している。
エルダの実家であるバシュラール公爵邸で、リュシーは身を清める際、使用人専用の共同風呂を使えなかったので、桶いっぱいの湯をもらって全身を拭いていた。これは公爵や周囲の悪意ではなく、法がそう定めているからである。奴隷は主人の慈悲によってのみ生きてよいとされ、公衆浴場も、井戸や生活用水路の無断使用も禁止だった。
それでも毎日湯をもらえる者は恵まれているほうだ。公爵は「下々の者を厚遇し過ぎるきらいがある」と眉をひそめられるほどだったとか。
幼い頃からそのような生活を送っていたので、リュシーは公爵が約束した〝報酬〟として隷属契約から解放された翌日、初めて公衆浴場を利用し、えもいわれぬ自由の心地良さを満喫したという。
土地によっては下民と同じ湯に浸かりたくない、湯が穢れるから余所へ行けだの、同じ平民から罵倒され締め出されることも多いそうだが、行き場をなくして流れ着く者の多い辺境では、そういうことは滅多に起こらない。
そんな経緯もあって風呂を好むようになったのだが、長時間浸かるのには慣れていなかった。
南の女王の別荘、豪華な客室の内庭にある露天風呂をさっさとあがり、リュシーは「少し涼んで来ます」と告げて散歩に出かけてしまった。
エルダはどこか残念そうな、肩透かしをくらったような顔をしていた。大物と対峙した高揚感がよみがえったのか、たまにはリュシーと語らう気になっていたのかもしれない。湯の中で全身を弛緩させ、緊張をほぐし切っていれば、普段は口にできない言葉もすんなり言えただろうに。
エルダは素晴らしい湯を堪能した後、居間で魔力操作の訓練を始めた。術式を構築せず、呪文も唱えず、ひたすらに己の魔力を感じ取って動かすという基礎的な訓練だが、就寝前の一時に行うだけで、翌日のキレが違ってくる。
しかし今夜は何故か雑念が入るようで、すっきりしない表情でふうと息を吐き、立ち上がって寝室ではなく出口のほうへ向かった。どうやら彼女も散歩へ行くことにしたようだ。
ひっそり静かな暗い回廊に、内庭から仄青い月光が差し込み、柱が斜めに影を落としていた。
しばらく歩いていると、エルダは前を行く人影に気付いた。
「……あら? シモン?」
「あれ、エルダ? どうかしたの?」
「図書室へ行くところなのですわ。なんだか頭が冴えてしまって。専門書は期待できませんけれど、気分転換にはなるでしょうし。あなたはどうなさったの?」
「僕も気分転換。今までのいろんなこと思い出して、僕も頭冴えちゃってさ。このままじゃ寝付けそうにないし、軽く歩いてすっきりしようと思ったんだ」
「そうね。すっきりしないまま、無理に横になっても夢見が悪くなりそうですもの」
夢と聞いて、シモンは少し妙な顔になったのだが、エルダは気付いていない。
「そういえばこの間、おかしな夢を見たんですのよ。わたくしの腕が『うぃぃーん』って――いえ、これはそのうち皆の揃った時に話すことにしますわ。そうではなく……」
エルダの腕が『うぃぃーん』でどうなるのか直ちに明らかにして欲しかったのだが、あいにく続きが語られることはなかった。
その代わり、彼女はもうひとつの夢の話を語り始めた。
それは、もし彼女らが魔法使いに出会わなかったらどうなっていたか、もはや起こり得ない仮定の話だった。
フラヴィエルダ=ノトス=バシュラールという名の少女は、討伐者ギルドで持て余されていた。
高慢な貴族令嬢らしく、自分は高みへ行ける存在だと微塵も疑わぬまま、己を認めようとしない周囲へ噛みつき続けていた。
フラヴィエルダの傍には、リュシエラという従順な奴隷以外、誰もいなかった。
第八階位の魔術士であることを誇りとし、さらなる高みを目指して、己の名を世に知らしめる日を夢見ながら、自分以外のすべてを足蹴にし続けた。他者の怒りも苦痛も、そんなものはフラヴィエルダの気に留めることではなかった。
出来ないことがたくさんあるのに、自力でなんでも出来ると恥ずかしげもなく言い散らかした。
家は関係ない、己の力のみでのしあがると嘯きながら、意に沿わない相手には堂々とバシュラールを名乗って黙らせ。
つまらない基礎訓練になど興味がないので、魔力の制御は甘いまま。
高位魔術士の価値はより高度な魔術を放てることであり、小物をちまちま駆除するより、一気になぎ払うほうがいい。
それで周囲の者が多少怪我をしても、それはフラヴィエルダのせいではなかった。
いちいち口うるさく邪魔をするから悪いのだ。術式の構築の最中に近くをうろついたりするから、気が散って仕方がない。敵を上手に足止めし、魔術士に攻撃が届かぬよう、魔術士が落ち着いて詠唱に集中できるように動くのがその他大勢の大切な役目ではないか。
しょせん討伐者は成功のための足掛かりに過ぎず、いつまでもその立場に甘んじるつもりはなかった。
――そんなふうに、自分以外のすべてを見下す言動を隠さなかったから、彼女はとうとう討伐者にすらなれなかった。
二度目の試験で、指導役の中に死人が出た。
当然、二度目の不合格。三度目の機会はもうない。
それでもフラヴィエルダの中に反省の文字はなく、「わたくしのせいではありませんわ!」とギルド長に噛みついた。
偉そうにこの自分の指導役を名乗りながら、負けてみすみす命を落とすような連中だ。もとから指導役に相応しくなかったのだ、と。
その言い草にギルド長は仮面のごとき冷たい顔を向け、二択を迫った。
穏和しく家に帰るか、このまま罪人として騎士団に突き出されるのを望むか、と。
フラヴィエルダは怒りのあまり爆発しそうになり、冷静なリュシエラの声が止めた。いけません、ここで攻撃魔術を放てば、殺意ありと見做され投獄が確定となります。あなた様はフラヴィエルダ=ノトス=バシュラール、高貴な御方。下々の戯れ言ごときに、心揺らぐ者ではありませんでしょう――。
そう、その通りだ。このような小物、憤るほどの価値もない。フラヴィエルダは侮蔑の視線をくれてやった後、足音も荒々しくギルドを出た。忠実なリュシエラを従えて。
それが彼女の破滅の序章だとも知らず。
「うわ~……エルダって、結構強烈だったんだね……。その後の展開、あんまり聞きたくないんだけど」
「わたくしはシモンに聞いてもらって、なんだか鬱屈を吐き出せたようで清々しい気分になってきましたわ。――おかしな夢というより、なんだか不愉快な夢ですわね?」
「うーん、アスファの夢もアレだなと思ったけど、エルダの夢も相当……。ギルドを出た後は、やっぱり転落の人生?」
「転落と言えばそうなのでしょうね。結局は実家にも戻らず、リュシーにあれこれ世話をさせながら、我ながらどうかと思うぐらい不平不満を吐き散らして、我がまま三昧な日を送りましたの。目覚めたからおかしいと思えますけれど、夢の中のわたくしは変だと気付けなかったのよ……あのリュシエラが、そうなっても唯々諾々とわたくしに従い続けてる状況のおかしさに」
「夢の中のエルダにとってはそれが常識だから、夢の中のリュシーも文句言わず従ったんじゃないの? 普通はどっかで怒ったり、見放したりするよね」
「いいえ。夢の中で、リュシエラはずっと奴隷のままだったわ。主人の娘に牙を剥くなんて不可能なの。だから本当なら、主人の娘を公爵家に連れ戻すか、もしくは公爵家の使いがやって来て連れ戻される、そうならなければおかしかったの」
けれど夢の中のフラヴィエルダは、夢の中のリュシエラと、少なくとも二~三年ぐらい各地を転々としていた。わたくしはこんなところで燻ったまま終わる存在ではない、そう文句を垂れながら。
つまりそれは、リュシエラが、どうにかして公爵家の手から逃れつつ、フラヴィエルダを連れ回していたということ。
「夢の中のわたくし、リュシエラに殺されたんですのよ」
「――えええッ!?」
「しーっ、声が大き過ぎますわよ! いくらこの辺り、わたくし達以外の宿泊者がいないとはいえ……」
「ご、ごめん。でも、うわ、なんでそんな展開に?」
「まあ、憎まれていたからでしょうね。しかも、わたくしへの憎悪が積み重なって、魔族の血が目覚めたとか何とか言っていたかしら?」
「ぅえッ……? ま、魔族の?」
「わたくしを生贄に完全な覚醒を果たして、魔王の軍勢に加えてもらう契約をいつの間にやら取り交わしていたらしいんですの。確かイシドールの町で勧誘されたようなことを言っていましたわね。その頃には意識が朦朧として聞き取りにくかったのですけれど、目が覚めて思い返したら、むしろ納得しましたわよ。あのリュシエラなら、そのぐらいやりかねませんわ」
「え~……? そこ納得しちゃうんだ……?」
寒々しそうなシモン少年とは反対に、エルダの表情はすっきりしている。夢の中で無意識にもやもやしていたものが、下克上の殺害で綺麗に晴れるとはこれ如何に。
「ああ、立ち話にしては長く話し込んでしまったかしら。なんなら、シモンも図書室までご一緒しませんこと?」
「や、いいよ。僕やっぱり、もう一度お風呂に浸かって、今夜はもう寝るよ……」
「そう? おやすみなさいね」
「おやすみ……」
果たしてシモン少年はその後、ぐっすり眠ることができたのだろうか……。
◇
エルダは庭を歩いていた。図書室は向こうの建物にあり、回廊をそのまま行くより、庭を突っ切ったほうが早いからだろう。
海にまつわる神々の彫像を抜け、遠くに広い人工池が見え始めた頃、その手前に佇む人影に気付いた。
「噂をすれば、というやつかしら? リュ――……!?」
エルダの顔の下半分を大きな手の平が覆い、彼女は背後から羽交い絞めにされ、彫像の足もとまで引きずりこまれた。
「むがッ!? むッ……」
「しー、俺だ」
「!?」
本気で暴れかけていたエルダは、耳元へ吹き込まれた声にぎょっと目を見開いた。
その男は……。




