255話 絶対ろくなことにならないのに、どうして手を出すんだ
厳しくも正しく、後進が模範とすべき高位神官の姿。
誰もが彼を称え、未来の自分の理想を重ねる。それが今までのラゴルスという人物だった。
しかし今や彼の生活の場は薄汚い牢獄の中に移り、鉄柵や石壁の向こうから響くのは祈りの文言ではなく、陰鬱な狂人の妄言ばかり。
ラゴルスは檻の中で、始終無言で過ごしていた。けれど心の中でまで無言だったわけではない。
不当な処遇への憤りを、暗く胸の内にくすぶらせていた。
――何故、私はこのような場所にいるのだ。
――何故、私がこのような仕打ちを受けねばならない?
◇
ラゴルスは裕福な家に生まれた。神殿に入ったのは十二歳になるかならないかの頃。
一度でも神々に仕える者として神殿に属せば、完全に俗世の権利から切り離され、相続権を失う。もし実家が格の高い家柄で、もし直系男子の最後の一人になったとしても、還俗はできない。
神職は軽々しくやめていいものではない。第一それを許してしまえば、後継ぎの代用品として我が子を神殿に預けようとする輩が出てくるに違いなく、神殿を便利な保管場所のように使われるのは業腹であった。
ラゴルスは後継争いを避けるために家から出された。彼はそれに抗わず、憎みもせず、粛々と従った。
彼自身、無用な争いを望まなかったからだ。側仕えの少年を伴って神殿へ入り、見習いから始めた。実家から莫大な寄付があったと聞かされたものの、ラゴルスは特別扱いを固辞した。
外野がどう憶測をめぐらせようと、彼は神々へ仕える己の道に誇りを抱いていた。生まれがどうあろうと、自分は他の子らと同等であり対等なのだと言ってのけ、神官達は少年の心構えに感銘を受けた。
見習いから始めるには少々歳がいっていたものの、ラゴルスはあっという間に才覚を示し、どんどん位を上げていった。残念ながら、側仕えの少年はそこまで熱心ではなく――むしろ不真面目で、怠け癖があり、かろうじて下位神官にはなれたものの、そこから上がることはできなかった。
そして、いつの間にか行動をともにすることはほとんどなくなり、どこかで何か罪を犯したと噂が流れてきたのが最後。それ以降、一度も名を耳にすることはなかった。
ラゴルスは忘れていた。
その少年の名前を、とうの昔に思い出せなくなっていることに。
彼には悪癖があった。
己は常に正しく、間違いがあるとすれば相手のほうである、と。
はっきりと自覚してはおらず、ゆえにそう口にしたこともないが、彼の言動はすべてその確信に基づいている。
否定意見を述べられても、理路整然と、それがさも真理であるかのように、最終的に自分が正しいという方向に持って行く。
自分が正しいのは至極当たり前であり、それをねじ曲げて否定しようとする輩がいれば、やれやれ困ったものだと溜め息をつく。
感情的にならないので、第三者から見れば正しいのはラゴルスのほうに見えた。
彼は考えもしなかった。同じように神殿に入った側仕えの少年と彼は、同じ見習いではあったが、対等ではなかった。
争いを避けるためとはいえ、我が子を不憫に思った親が、我が子の新たな生活を支える者として、同年代の側仕えをつけた。
すなわちあの少年はラゴルスのために親が準備したものであり、少年自身の意思はそこに微塵も入っていなかった。
そしてラゴルスと違い、彼は神官になりたいなどと望んではいなかった。身分が低く、使われる立場の層ではあったけれど、将来の夢を大切に温めていたのだ。
けれど拒否はできなかった。下々が身分の高い相手に盾突いたら、それこそ、そこで人生が終わってしまう。
そうして、彼の夢や希望は誰にも気にかけてもらえることなく、ラゴルスのために潰された。
それだけではない。側仕えの少年は、決して不真面目でも怠惰でもなかった。
自分の身の回りだけでなく、ラゴルスの身の回りも気にかけねばならなかったのだから、単純に仕事量が倍ほどもあったのである。
さらにラゴルスが「特別扱いは不要」と宣言したせいで、割を食ったのはその少年だった。あのお坊ちゃんが余計な格好つけをしなければ、もう少しぐらい、自分達の――自分の生活は楽になったろうに。
いくら対等と口先だけで言っても、長年かけて染みついた〝上位〟と〝下位〟の意識はそう簡単に払拭できない。ラゴルスは自分で自分の世話を随分できているつもりでいたが、比較対象は優雅な実家暮らしであり、面倒なほとんどは側仕えの少年にさせていたのだ。
おまけに、これまで受けてきた教育の質も量も違った。
片や教師をつけられて、ご令息としての知識や作法を身につけてきた若君。彼はこれからも、側仕えのおかげで空いた時間を使っていくらでも学び、己の目標だけを気にして有意義な日々を送っていける。
片や使用人の子供として、毎日朝から晩まで働いてきた少年。神殿でも使用人とは呼ばれない使用人として働き続け、一日が終わる頃にはくたくたになって、自己研鑽どころではない。
――だから彼は、爆発してしまったのだ。
もう駄目だ。もうやっていられない、と。
ラゴルスはそれを聞いても、どうせあの男は向いていなかったのだ、と不愉快に感じただけだった。
ただし祈りの間で、時折ふと、それは違うと空耳がしたような、そんな気がすることもあった。
【他者の声に耳を澄まし 目を向けよ】
【己が行い 百のうち百すべて正しいなど 有り得ぬ】
ラゴルスを諭そうとしたり、夢の中で何者かが語りかけてくるような、そんなことがなくもなかった。
けれど、いちいちそれに意識を傾けたりはしない。
人々の話はいつだって真摯に耳を傾けているし、ラゴルスは視野の広い切れ者と高い評価を得ていた。
迷いは打ち勝つための試練。いちいち惑わされはしない。
己は過ちなど犯さないのだから。そう心を強く保っているからこそ、優れた神官たり得るのだ。
敬虔な信徒として、日々己を磨き続けている姿を、神々もご照覧くださっているであろう、と。
それにしても最近、何故か、神聖魔術の効きがあまりよくない。
◇
何故、あれほどに仕えてきた自分から資格を奪っただけでなく、このような試練を与えるのか。
牢の中で、ジリジリと不穏な毒が臓腑を少しずつ蝕んでゆく。
そんなある日、囚人達が散歩のために檻から出された時のことだった。
どこかでつんざくような悲鳴があがり、破砕音が響き渡った。
呆然としているうちに、音と悲鳴はどんどん近くに迫ってくる。それは潮騒のようにも、乾いた岩場の空洞を通り抜ける風の音にも聴こえた。
周辺にいる看守や兵士が吹き飛んだ。頭からすっぽりとローブで隠した何者かがなだれ込み、囚人達は慌てて散り散りになった。
そのうちの一人が、ラゴルスの腕をつかんだ。
「お久しぶりです、ラゴルス様」
「な、――なにもの、だ?」
「以前、あなたと学びを同じくした者ですよ」
ローブをちらりと持ち上げ、その男は顔を見せた。
頬骨の形がはっきりとした、痩せぎすの男。ラゴルスはその男に見覚えはなかったが、相手は人好きのする笑顔を浮かべていた。
「お迎えにあがりました。真なる神はあなたの苦境をお見捨てにはなりません」
どうか我が教団で、しかるべき地位に就いていただきたい。
そしてともに、真なる神にお仕えいたしましょう。
「…………」
その言葉の意味を呑み込み、ようやく、ラゴルスは笑んだ。
やつれた顔を、その笑みは「にやり」と歪める。
そうだ、それでこそだ。私はこのようなところに居ていい者ではない。
静かに狂喜するラゴルスは、気付かなかった。
随分経ったとはいえ、面影は少しだけ残っていたにもかかわらず。
その男はラゴルスがそういう人物だと知っていたので、ただにこやかに笑んでいた。
それはかつて、傲慢な人々の都合に振り回され、絶望の中に消えていった側仕えの少年だった。
◆ ◆ ◆
――なんてことがあったとかなかったとか。
小鳥氏の報告を受けながら、瀬名は無言でテーブルの隅を見つめていた。
これはあれである。詐欺の手口だ。予告なしに情報を与え問答無用で巻き込むやつだ。
(何故誰もかれもが、その危険を甘く見るんだ……気軽に闇の扉の封印に触れてはならぬとあれほど!)
瀬名はちょっと、小鳥さんの羽根をむしりたい衝動にかられた。
報復が恐怖なのでもちろんやらない。思うだけである。
ちなみに小鳥氏は今回、言葉のみの説明にとどめた。今さらというなかれ、この世界の人々を上映会に馴染ませてしまうのはよくない。
便利さが広まってしまえば、瀬名が無用に引っ張りだこになってしまう。同様のものを作れと要求されても面倒だ。
帝国の時は映像のインパクトで、瀬名が主導権を手にした。そのおかげでさまざまなことをスムーズに進められた。
今回はそんな爆弾を用意せずとも、最初から皆が協力的で反応も早い。瀬名や小鳥氏の主導で進めれば、凄まじい勢いでもろもろが片付いていくと前例ができたからだ。
余談であるが、某ラゴルス氏が「ニヤリ」とした頃、ちょうどその真横あたりに、保護色で周囲に同化したタマゴが堂々と撮影を行っていたらしい。
二人の目鼻立ちから表情から、しっかり綺麗に映っているそうだ。いっそ哀れである。
「その男はおそらく、〝ナナシ〟だろう」
「――ななし?」
「邪神を祀る組織、現在は〝至光神による救済の使徒〟と名乗っているらしいが。そこの幹部だ」
グラヴィス騎士団長が言った。
そんなカルト教団、瀬名は小鳥氏に聞いた記憶がまるでないのだが。
「聞き覚えがなくとも無理はない。その教団は過去、何度も名称を変えている。首長や幹部が頻繁に交代し、そのたびに一新しているのだが、実態は同じものだ」
いわく、輝ける至光神の翼。
いわく、比類なき至光神の御手。
いわく、全能にして慈悲深きなんたらかんたら以下略。
騎士団長の渋い重低音が事務的に紡ぐ、きらきらネームが右手から左手の指に移るあたりで、瀬名は悟った。
(もしやその連中って、ちゅう…………いや、まさかな……)
ちなみに教団名の由来は、いつの時代だかの教祖が「真なる闇は真なる光に通ずる」という真理に到達したからだそうな。
(やはり、ちゅう…………いや、よそう)
すっきり略して至光神教。もうこれが正式名称でいいと思われる。
構成員は、神々の恩寵を失った元神官。神殿から破門された人々。総じて被害者意識が強く、「私が見放されたのではない、私こそが偽神を見限ったのだ!」と主張している。
活動内容は、町角で多少過激な説法を披露するだけの時代もあれば、物理的に過激な手段に訴える時代もある。これはその時のトップが平和主義かそうでないかで、組織全体の性質ががらりと変わるのだ。
少し前、某所の牢獄が牢破りに遭い、襲撃者の手引きで元神官の囚人が行方不明になった。囚人の名はラゴルス。
時を同じくして、某所の神殿から見習いが行方不明になった。「真実の神にお仕えする」と書き置きを残して消えた見習いの名はサフィーク。
一匹は既に捕獲している。
それはさておき。
現在は過激派。テロの世代だ。




